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たまには茶の湯の勉強を、ということで『山上宗二記』を読み始めました。

茶道具の勉強はしても、こういう茶書まではなかなか手がまわらなかった私。最近茶道の勉強不足が過ぎる感じがするので思い切ってこの本を図書館で手にとって借りてきました。

この『山上宗二記』は茶聖・千利休の一番弟子で彼と最も親しい人物のひとりである山上宗二が書いた「茶書」であります。

現代においては第一級の茶道資料とされ、千利休の時代の茶の湯の動向を知るにはもってこいの本であります。茶道をやっている人だったら一度は読んでおいたほうがいいかもしれません、ただ内容は茶道具や茶道の歴史をよく知っている人でないと分からないでしょう。

山上宗二という人は、茶道漫画『へうげもの』でも描かれているように、大変偏屈な人であったと言われ当書でもその様をうかがい知ることができます。彼は千利休と同じく堺の商家薩摩屋の出身で、家の格自体は利休よりも上であり、自治都市であった堺でもかなり重きをなしていました。利休には早くからその門弟となり、豊臣政権にあっては大和大納言羽柴秀長の茶頭として仕えていました。しかし1586年ごろに豊臣秀吉の怒りを買って高野山に追放され、各地を流転する浪人となりました。宗二はやがて小田原の北条氏に仕えて関東に茶を広めるきっかけを作ります。秀吉による小田原征伐が開始されると投降し千利休を通じて再仕官を願い出ますが、またしても秀吉を怒らせることを言ってしまったらしく処刑されてしまいました。

この『山上宗二記』が書かれたのは、宗二が追放されたあとの時期であり、各地の弟子たちに向けて自筆の本がいくつも送られているため、今も原本が多く残っています。本によって記述に差はありますが、特に宗二が島根の岩屋寺住職に送り現在は表千家が所蔵しているものが一番信頼が置けるとされています。岩波文庫から出ている熊倉功夫氏が校注を加えている本もこの表千家本をもとにしています。

『山上宗二記』は茶書とは言ってもその半分以上は名物記で茶道具についての話が全体の半分以上を占めるのでかつてはそこまで重んじられず、茶道について本質的に論じた『南方録』と比べると低く見られがちでした。しかし最近は『南方録』の偽書説が有力になり、また利休在世時の茶の湯の動向をつぶさに捉えた信頼の置ける書として現在では代表的な茶書に挙げられています。

その構成でありますが、だいたい私が分類したところを以下に示してみます。

p.9~ 序文

p.16~ 茶壷
p.29~ 天目
p.32~ 茶碗、茶杓
p.36~ 釜
p.38~ 水指、鉢など
p.43~ 香、香炉の灰
p.51~ 墨跡
p.54~ 絵画
p.63~ 花入
p.68~ 肩衝
p.74~ その他茶入

p.84~ 台子飾り
p.87~ 侘び茶入れ
p.88~ 夏の花
p.89~ 茶人の覚悟十条
p.91~ さらに十条
p.97~ 紹鴎、道陳、宗易の密伝
p.100~ 古今茶の湯名人
p.104~ 「院主」に申し渡した口伝

p.118~119 後書

内容としては「その他茶入」までが名物記で前半として区切ることができます。後半では「茶人の覚悟」や「密伝」など茶道論について語られており大変面白い部分であります。

前半の名物記においては茶壷が一番最初に来ていますが、これは室町時代においては茶壷が「唐物」と呼ばれる中国渡来の宝物の頂点であった時代の名残と言えます。ちょうど山上宗二の生きた時代では茶道具の王座が茶壷から茶入へと入れ替わる過渡期にありましたが、保守的な宗二は敢えて茶入を最後にして茶壷を最初に持ってきています。しかし茶入の項では「天下三肩衝」をはじめかなりの量を割いています。

後半の茶道論においては各項があまりまとまりのない感じがします。これは宗二が日頃書き溜めていた文を次合わせたからなのでしょうか。しかし前半よりも読み応えのある宗二ならではの茶人・茶道論が書かれています。

この書ではよく「口伝あり」という言葉が見られますが、これは「この先の話は金子を払ったら聞かせますよ」という意味です。つまり弟子たちに金子と引き換えにこの名物や茶人に関するさらなる逸話を聞かせてやる、というなかなかがめついな商売です。もったいぶらないで書けばいいのに、とは思いますがまぁそんなたいした情報ではないと思います。しかしこの時代は茶道というのはなんでも「口伝」であり、成文化を嫌うのが常でありました。だから千利休も茶書を一冊も残していないし、他の茶人も会記以外は残していません。それだけに口伝を通して得られる情報の価値には大変な重みがあったのでしょう。

次回からはもっと個々の内容に踏み込んでこの『山上宗二記』の世界を見ていきたいと思います。