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(『足利義持若宮八幡宮社参図絵巻』に見られる同朋衆、右中央の剃髪・帯刀をした三人)

ちょっと前から頑張って茶道第一の茶書『山上宗二記』を読み始めました。

前回は本書の概略の説明のみに終わりましたが、今回からは内容について順を追って見ていきたいと思います。

今日読むのは、一番最初の私が「序文」と便宜的に命名した、翻刻して10ページ程度の部分です。ここでは最初にこの書が茶の湯の開山・村田珠光の秘伝書の写しであると宣言した上で、室町将軍・足利義政と村田珠光の出会いから現代、すなわち千利休主導の時代に至るまでのわび茶の歴史を語っております。この内容の批判は後に回すとして、まずは内容を軽く要約してみたいと思います。私は専門的な知識はほとんどなく、『宗二記』の研究書も読んでいないのであまり間に受けすぎぬよう断っておきます。


この書は珠光の秘伝の書である。

茶の湯の興りというのは足利歴代の将軍が唐物などを歴代が集めていた頃であり、この頃は善阿弥などの同朋衆がいた。足利義政の在世には名物がことごとく集められており、義政は東山に隠棲して様々な興を楽しんでいた。この義政は遂には遊びに退屈して、彼の同朋衆である能阿弥に「珍しき遊び」を所望した。そこで能阿弥は南都称名寺で茶の道の志の深い珠光という者のところへ行き、その極意を伺った。珠光によれば茶道具の飾りは四季に合わせて飾るべきであり、逆に四季関係なく唐物を飾るのはその名物の威光があるからに過ぎない、という。彼は禅宗の墨跡をよく用いており、彼の参禅の師である一休宗純から授かった圜悟克勤の軸をかけて楽しんでいた。義政はこれに心動かされ、珠光を召抱えて茶の湯を死ぬまで楽しんだ。

この時代、この世で茶の湯を嗜まない者は「人非仁」であった。大名のみならず下々までもが茶の湯を好んだ。その中でも名物の所持者は町人であろうと大名のごとく扱われ、茶坊主は召抱えられて御咄衆に加えられた。特に名のしれた有名な茶人では、松本珠報、粟田口善法、古市播磨、鳥居引拙らがいた。足利義政死後、代々の将軍も義政と同じく茶に親しみ、能阿弥の跡を継いだ同朋衆の芸阿弥や相阿弥をよく先師に学んだ。その後義政収集の東山御物は散り散りとなり下々がこれを入手した。

珠光のあとを継いだのは、村田宗珠、十四屋宗伍、藤田宗理、武野紹鴎らであった。珠光は茶の湯における目利きを能阿弥に教えてもらい、珠光はそれを弟子たちに相伝した。鳥居引拙の代までは珠光風の茶は保たれていたが、武野紹鴎の代になってがらりと変わった。古今の唐物を集める者は「大名数寄者」、目利きであり師匠として生きる者は「茶の湯者」であり、名物を持たず、覚悟があり、作分(工夫)も手柄もある者は「侘び数寄者」、唐物もあって目も利き茶の湯の腕もあるものは「名人」である。武野紹鴎という茶人は最後の「名人」という茶人の評価を初めて加えた人である。そのほかにも多くの茶道具が紹鴎の目利きで見出された。さっきの茶人評では「茶の湯者」が松本宗珠、「侘び数寄者」が粟田口善法、「名人」が珠光、鳥居引拙、武野紹鴎である。ここまでの話の大方は珠光の秘伝書の写しであり、少し後に紹鴎が追加したものも混じっている。武野紹鴎の死後はずっと宗易(千利休)が茶の湯の牽引者であり、彼に色々と問い聞いてこの書を改変した。



だいたい乱雑ですがこんな感じです。細かいところはだいぶ間違っていると思いますが軽く流してください。

まず注目されるのは宗二がこの書を「村田珠光の秘伝書」としている点です。こういうのはよくある「箔付け」のための文言でありたいてい事実の誇張に過ぎないので、実際は宗二が見聞きしたことを書いているのでしょう。もはや宗二の生きた安土桃山時代にあっては村田珠光という人は半ば伝説的な茶人であり、その実像を知ることは困難であったろうと思います。

最初の方で語られる足利義政と能阿弥、村田珠光の逸話でありますが、こちらもだいぶ脚色があるでしょう。足利将軍家や同朋衆たちが京都で嗜んでいたのは唐物を中心とした華美なる貴人茶道であり、奈良の村田珠光が創始した「わび茶」とは全く毛並みが違います。おそらく義政の好みとわび茶は随分かけ離れたものであったに違いありませんし、この両者の結びつきというのは後世の創作と思われます。このようにわび茶の創世が足利将軍家との関わりにおいて語られるのはなぜなのか、というとこれも箔付けのためでしょう。将軍義政をも感動させその道に入らせたわび茶、となればわび茶を嗜む堺衆にとっては堂々と胸が張れます。ちなみに、この箇所では村田珠光が一休宗純から円悟の墨跡を授かったという話が載っておりますが、これもちょっと信ぴょう性はありません。村田珠光が一休宗純に参禅したというのも後世の作り話だと私は最近思うようになりました。

後ろの方には非常に興味深い話として、「大名数寄者」「茶の湯者」「侘び数寄者」「名人」という茶人の区分があります。最初の「大名数寄者」というのは大名のみに限らず、東山御物をはじめとした名物を集める茶人のことを指します。この中には豪商もいたのでしょうが、大抵は資金・軍事力のある戦国大名でした。松永弾正や織田信長のような武人たちがその類でありましょう。こうした「ブツ」に執着する茶人というのはこの当時非常に羨ましがられておりました。茶人の資格として、名物を持っていること、名物の目利きがあることは当時重要視されていたのです。三番目の「侘び数寄者」というのは、無一物で隠者のような生活を送る茶人のことです。敢えて宗二が「覚悟があり」と記しているのは、この侘び数寄者の道というのが求道であり、命懸けであることを強調しているのでしょう。茶道漫画『へうげもの』にはノ貫という山科に隠棲するわび茶人が出てきましたが、彼もこの侘び数寄者に当てはまります。最後の「名人」というのは、二番目の「茶の湯者」の中でもとりわけ秀でた茶人のことを指すのでしょう。宗二は珠光・引拙・紹鴎の名を挙げております。宗二は利休に色々伺ってこの書に改変を加えたと記しているので、この茶人評には利休の考え方も反映されているかもしれません。

次回は宗二記の大半を占める名物記についてかいつまんで見てみたいと思います。