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千利休の茶室と言えば「待庵」、古田織部の茶室と言えば「燕庵」、小堀遠州の茶室と言えば「忘筌」か「密庵」(密庵はおそらく彼の設計か)、金森宗和の茶室と言えば真珠庵「庭玉軒」、片桐石州の茶室と言えば「慈光院」(あそこは寺全体が茶室)、といったふうに各時代の大茶人には彼らに対応するようにして代表的な茶室が存在します。

そして戦国の世を巧みに生きた織田信長の弟で茶人の織田有楽(長益)にも彼の名刺代わりとなる名茶室があります。それが現在愛知県犬山市の犬山城から程近い有楽苑にある「如庵」です。

この茶室は元々栄西禅師が開山となった臨済禅の大本山・建仁寺にありました。織田有楽斎は関ヶ原の戦いでは東軍について領地をもらっていますが、大坂の陣の際には豊臣秀頼について大坂城に入りました。しかし城内の武将たちとの対立から夏の陣の前に大坂城を退去し、この建仁寺に隠棲します。そして1618年に彼が再興した塔頭の正伝院にこの如庵を建立しました。その4年後に彼は亡くなっているので、この如庵は彼の最晩年の好みを反映した茶室と言えます。その後如庵は江戸時代を通じて建仁寺にありましたが、明治の廃仏毀釈では建仁寺も打撃を受け、特に塔頭は多くが廃されました。そのあおりを受けたのか、如庵は寺を離れてしまいます。その後三井家に買い取られた如庵ははるか遠くの東京、神奈川県大磯と転々としとします。最近になって如庵は犬山へと移され、現在はここに落ち着いています。現在故地の正伝院には如庵の写しが作られています。



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さっそく如庵の構成について見ていきましょう。私にとってはこの如庵というものの数寄を理解するのがとっても難しく、以前茶室を多くここで取り上げた際にも、この如庵だけは敬遠して扱いませんでした。どこが難しいのかというと、まずこの茶室が空間的にはと茶室の古典・四畳半と近い(少し狭い)広さなのに対して、畳の数が「二畳半台目」であるという点であります。なぜここまで複雑になっているのか、そして点前座の炉に接して設けられた囲いのある中柱、斜めに切られた鱗板などほかの茶室には見られない斬新な工夫など、想像してもわからないことだらけなのです。今回は自分なりに考えたことも織り交ぜつつ解説していと思います。






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如庵のにじり口。

障子口の方から入るのかと一見思ってしまいますが、如庵の入口は右側の大変地味なにじり口です。障子口のほうは刀掛けであるとともに腰掛けのような場所だとも言われています。これも相当変わった工夫です。そして写真の右にちょっとだけ見えるのがこれまた有名な丸窓です。上部には如庵の額が見えます。実はこれは如庵が作られる前のものであり、有楽斎が以前に作った茶室・元庵にかけてあったものだそう。







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床の前から客座の方。

見ての通り腰張りは見事に反故張りです。有楽は豊臣秀吉の茶室で反故張りがあったのを見て真似をしたそうです。そして窓も大変多くて、見えるだけで四つあります。その内左の二つが高名な「有楽窓」。竹を詰め打ちにしており、通気をよくするとともに、木漏れ日を美しく見せる効果があります。ただ元々は正伝院にあった時代には如庵の裏が墓場のある竹やぶだったそうで、その竹やぶと同化させるためにわざと同じ竹を窓に打ち込んだとも言われています。天井は客座側が駆け込み天井で、上座は丈竿天井となっています。





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点前座側からにじり口。

にじり口の上にも窓があるので全部で窓は五つ。しかもどれも大きめなのでかなり明るい茶室であります。こうして見ると、白っぽい反故張りがいかにも柔和な感じを出しています。これが紺地の腰張りだったらもっとこわばった印象を受けるかもしれません。ここにも有楽斎なりのもてなしの姿勢が見られます。あとこの位置からだと中柱がより一層異様に見えてしまいます。








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客座から茶道口。

斜め切られた地板の空間が印象的です。この地板の空間はおそらく視覚的に落ち着いた印象を客に与えさせるために工夫したのでは、と思います。もしこの板張りを半畳分に増やしたら、ということを想像しましたが、やはり角が立った茶室に見えてしまうかもしれません。逆にこの板張りの部分を壁にしてしまったらやはりなんかソワソワしてしまうと思います。つまり板張りが半畳でも、なかったとしても、そこには客から見て「見えない部分」ができてしまうことになります。これが落ち着かない印象を与えてしまうのです。しかしこうして斜めに壁を作ることでその視覚的な問題は解消されます。ここにも有楽斎の客目線の茶室作りが見て取れます。





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客座から床の間

床框の黒木や落とし掛けの角ばった木材など、素材にも細かな工夫があります。






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にじり口から有楽窓。

左には老人点前用の道庫があります。運びの点前の際にはここの中にお道具を仕込んでおきます。晩年の有楽にはさすがに道庫は欲しかったでしょう。

そしてこの如庵の大きな謎である囲い中柱、そしてその向うの半畳です。まずはここでも想像してみましょう。もし中柱に囲いがついてなかったら、きっと点前座全体が緊張感に欠けて間抜けに見えるでしょう。そして、もしこの右半畳を壁にしてしまったら、相当圧迫感がありますし、亭主の様子も客からはあまり見えません。これも視覚的な要因からこのような風変わりな構成をとったのでしょう。

こうせざるを得なくなったのは、そもそもほぼ紹鴎四畳半の空間で畳を横二枚でくっつけてしまったことから来ているのではないでしょうか。これはちょっとパズルみたいな話ですが、あの紹鴎四畳半だと半畳が真ん中に来て、その周りを四枚の畳が囲みます。それに対し、先に紹鴎四畳半に喧嘩を売る気で「横に畳二枚連結」という条件を有楽斎は遊び半分で考えたとします。有楽「点前座は縦で右奥にしようか、そして床はもう左奥にするしかない、そうしたら半畳は右手前しかないな…」みたいな感じで考えていって、結果としていい感じになっちゃったので茶室として作ってしまったのでは、というのが私の勝手な想像です。そうでもしないとこんな破格の茶室は生まれなかったはず…。しかしこの数々の視覚的な工夫、これは待庵の単純さとは対極にあるようなわび茶室、といっても過言ではありません。

結論としては、有楽がこの茶室を作るにあたって明らかに紹鴎四畳半を意識していたのだと思います。結果としては四畳半よりも少し狭い空間に床も収めて二畳半台目という変則茶室が出来上がりましたが、その発想の原点は紹鴎の茶室にあったでしょう。千利休は紹鴎四畳半をひたすら矮小化して一畳半にまで縮める方法を取りました。一方の有楽はほとんど空間的な広さは変えずに、採光を多くし視覚的にくつろぎを与えるような茶室作りを目指しこの如庵を作りました。織田有楽斎、その創意は千利休の茶室と並びうるほどのものがあったと私は思います。


この如庵、機会あれば実際に見てみたいものです。今は愛知の犬山にあるので、同じ国宝の犬山城と一緒に見られたらいいんですけどね。公開は月一回で、午前と午後の二回だけのよう。それでも同じ国宝で非公開の密庵と比べたらありがたきことです。



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おまけ:有楽斎が如庵の前に作った茶室・元庵の俯瞰図です。表千家不審庵を思わせる三畳台目でありますが、この茶室もまた風変わりで、うなぎの寝床的な細長さです。それに点前座の奥に床の間を設けていますし、給仕口が大きいのも変わっています。床の位置さえ変えればこの茶室は不審庵とほとんど同じですが、たはり採光のことを考えてわざわざ床の間を点前座の後ろに置いたのでしょう。この元庵は如庵と同じ有楽苑に近年再興されております。