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昨日、ようやく発売された茶道歴史漫画『へうげもの』を手に入れました。今回もまたもりだくさんの内容でありました。今回は1609年、1610年を扱っています。

開始早々公家の猪熊がお縄について退場となり、相変わらずの迅速な話の展開でありました。これを発端とした徳川幕府の禁中への介入とそれをこらえる後陽成天皇のこともよく描かれています。一方では二巻から登場し続けてきた重要人物であり戦国時代最大の文化人であった細川幽斎が死去します。現在暗躍している大久保長安も大分寿命が迫っておりますが、今後どういった行動を起こすのかは楽しみです。

茶人、古田織部にとっても大きな転機がありました。それは将軍・秀忠の茶の湯の指南を命ぜられた出来事でありました。古田織部としてはこのころがその名声の頂点ではありましたが、一方で劇中島津家久と琉球王の接待に苦慮していたところからも察せられるように、てんてこまいなところはあったでしょう。



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本巻の帯の絵はこちら。なんとも緑釉が印象的な織部焼、獅子香炉(個人蔵)です。個性の強い織部焼の中でも特に異彩を放っております。今回は琉球王が登場するということで沖縄色がところどころに出ていました。この獅子香炉も沖縄のシーサーに見立てて登場させたのでしょうね。



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今回の目玉茶道具はこちら。黒織部茶入「餓鬼腹」です。

島津家久には「おいどんは白薩摩のほうがいい」と一蹴されてしまいましたが、実に斬新です。下部に広がっていく釉分けがまるで餓鬼腹を彷彿とさせることからこの銘がついています。作中で織部と親交の深い商人・浦井新兵衛が師事した美濃焼の陶工・佐々竹庵の作ということになっています。この茶入の斬新なところは「耳」がついているところです。こうした意匠は古伊賀や備前の水指等で見られますが、それを茶入にもつけたのはこれが初めてかもしれません。この創意はやがて弟子・小堀遠州にも引き継がれ、遠州好みの瀬戸茶入にも反映されていったのでしょう。




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毛利輝元の養子で毛利家重鎮の秀元が織部に披露した萩焼の「是界坊」。元となった茶碗がこれ。織部が毛利に切型という茶碗の設計図を渡して作らせたことになっています。その影響からか、本作品にはあの高麗割高台茶碗(畠山記念館蔵)に見られた高台を割るという手法が用いられています。こちらはあの割高台茶碗とは違い、三か所に切れ込みを入れています。茶の湯好きだった毛利が心血を注いで発展させようとした萩焼。この初期の萩焼というのは本当に本家・井戸茶碗を和様化させたような見事な趣向を持っています。



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近衛信尹が織部に出したこちらのお茶碗、これも古萩焼の逸品「雪獅子」であります。こちらも高台を割っており、織部好みであると作者は判断して本作に登場させたのでしょう。なににしても、口縁の緩やかな歪み、そして黒織部よろしくつけられたくびれからは間違いなくこの茶碗には織部の関与があっただろうと私も推察します。

しかし私はその黒織部っぽい形以上に気に入っているのが色合いであります。井戸茶碗みたく渋い色合いでありますが、二番煎じではない秋風のような憂愁をたたえたその色が全くもって素晴らしいのです。そして本家に勝るとも劣らない見事な貫入(表面のひび割れ)。この茶碗は私の中では萩茶碗の最高峰です。






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商人・浦井新兵衛が手作りで仕上げたというこちらの備前茶入。備前焼では「新兵衛手」と呼ばれています。新兵衛手は肩の部分が肩衝みたく張った備前茶入のことを言うそうで、下の備前茶入は絵のものとは違いますが、その新兵衛手に分類されています。この浦井新兵衛は驚くべきことにほかにも美濃、信楽などでも自作を仕上げていたと言います。商人でありながら、器に良く興味を持って自ら当地に出向いたのでしょう。私の好きな古伊賀にもやはり「新兵衛」なる人物作の茶碗(根津美術館蔵)がありますが、これもこの浦井新兵衛の作なのでしょうか。気になります。






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織部が徳川家康に贈呈した織部焼の陶硯です。織部焼は硯まで焼いていたのです。

上の物は葵御紋の入った贈呈用であり、作者の創作と思われます。元となったのは下のものでしょう。茶色っぽい色合いですが、よく見ると織部焼緑釉に独特のムラがあるのが分かります。これにも古田織部の関与があったかは不明ですが、織部焼の視線というのが、茶道具ならずこういったところまで広がっていたという事実には驚かされます。






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大荒れの福島正則が持っているとっくり。なんだか織部焼のような、唐津焼のような焼き物ですが、これぞ織部唐津と呼ばれるものです。焼かれたのは唐津であり、絵柄は唐津そのものであります。しかしあの織部焼の専売特許たる緑釉が使われていることでまた斬新な印象がでています。おそらく実際にも織部という人は唐津焼と織部焼の両者を指導しており、緑釉の技術は織部によって唐津にもたらされたのではないでしょうか。これぞ古田織部が両窯に関与していたことを証拠づける品なのではないかと思います。




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織部が烏丸光広に贈った織部好みの箱。真田紐に桐を使った、お洒落な、そして武家好みな箱であります。茶道具を入れる箱にまでは私もなかなか興味が行かないものでありますが、『へうげもの』ではこうしたところまで織部好みのこだわりを描いています。



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ここからは人物について。

まずは豊臣の重臣であり、各地の寺社の奉行を任された片桐且元。小堀遠州の後の世代の茶の湯を担う片桐石州の兄でもあります。このときは焼失した方広寺の大仏殿の奉行をしていました。このときの方広寺再建はやがて大坂の陣の引き金となる鐘銘事件を誘発することになります。




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猪熊事件に連座しながら、細川幽斎らの嘆願によって助命された烏丸光広。彼はその後更生したのか、後水尾天皇にはしっかり仕えました。一方で彼はこの当時から大変な文化人の一人であり、特に書においてはあの江戸初期の三筆にも劣らぬほどの名声がありました。上は彼が朝廷の使節として江戸を往復する際に書いた『東行記』。私も東京国立博物館「和様の書」展でこれを目にしたことがあります。その字体は実に傾いたような、投げやりなような、自由闊達な風があり、私は特に感銘を受けました。「字はひととなりを表す」これは私の信条みたいなものでもありますが、この字を見た時、烏丸光広ってまさにこの字みたいな人だったんだろうな、と思いました。



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後陽成天皇が出した黒織部茶碗を正客の公家がわざわざ代わりの美濃焼に移し換えて飲もうとする場面。見かねた天皇はこの後注意をします。あれはどういうことかというと、天皇が出した茶碗で飲むのは恐れ多いから、違う茶碗でもって飲まねば、という配慮であります。公家の身分意識というのはまさにこんな感じなのかもしれません(わざわざ茶碗を移し替えるというのは聞いたことがありませんけど)。しかし一言言っておくと、お茶をいただくときに茶碗を時計回りに回すあの動作、あれは「正面を避けて飲む」という亭主に対する配慮であるのであれで十分でしょうし、いくら身分差があるといえどもわざわざ違う茶碗で飲むことはないでしょう。



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戦災で焼失した名古屋城の茶室にあった「猿面の床柱」。もともとは名古屋の北、清洲城にあったものを名古屋城建設にあたって移築してきたものと言われています。現在は復興されており、使用することもできるみたいです。しかし、名古屋というのは茶の湯の盛んな場所でありますから、いつか茶の湯の旅をしに行かねば、そしてこの茶室も見なければと思います。


読むたびに新たな発見がある、この『へうげもの』。私はこの本のおかげでどれだけ勉強することができ、そして感化されたかわかりません。皆さまも是非ご一読をおススメします。