L_294



















予想外の歩調で亀のごとく進み続けているマボタン二周年企画の「古田織部の茶」。いい加減来週には一気に十回まで書き上げるつもりであります。第六回は、古田織部がちょっと度の過ぎたことをやってしまった(私が思うに)逸話について紹介します。

今回の主役となる茶道具は、上の掛け軸。こちらは東京国立博物館に所蔵されている、国宝の「流れ圜悟」です。この墨跡はとにかくすごい茶掛であります。三つかいつまんで挙げると、まず現存最古の墨跡であること。書かれたのは中国の北宋時代、宣和6年(1124)になります。墨跡の数は多しといえども、これよりも前のものは存在しません。

次に、これを書いた圜悟克勤という人が、ほぼすべての墨跡を書いた高僧の祖師に当たるからであります。これについては、以前私が上げておいた禅僧の系譜を参照してもらえばわかります(http://livedoor.blogimg.jp/aoi515horikawa/imgs/8/4/8437cb11.jpg)。これを見ればわかる通り、すべての墨跡を書いた禅僧は、その系譜をたどれば圜悟克勤へと行きつきます。法脈上でも、圜悟克勤という人の存在がどれほど重視されていたかが分かるでしょう。

最後にこの墨跡が「印可状」という、墨跡で最も重視される部類のものであるからです。印可状とは、禅の師がその弟子に熟達の印として与える許可状のことであります。つまりこれをもって弟子は師から一人前と認められたわけであります。この流れ圜悟は圜悟克勤が彼の弟子である虎丘紹隆に与えた印可状になります。その内容的な重みも相まって、墨跡の世界ではこの印可状は法語と並んで最も重要視されているのです。

ここまで長々とこの流れ圜悟がいかに大変な墨跡であるかをつらつらと書いてきました。まさに墨跡の中の墨跡であります。その存在故茶人からも神聖視されてきたこの茶掛と古田織部がどうかかわるかについてこれからお話します。流れ圜悟は元々薩摩国の坊津というところに流れ着いたという伝承からその名がありますが、その後も色々な場所を転々としました。やがてこの墨跡は東北の大名・伊達政宗の所有に帰しました。伊達政宗という人は千利休に茶を習い、古田織部の弟子でもあった茶人大名でありました。正宗はこの天下無双の墨跡を茶室に飾ろうと考えましたが、なにせ行数が多いので、なかなか草庵の床に掛けるのが難しかったのです。そこで師である古田織部にこのことについてどうしたらよいか相談したところ、織部は流れ圜悟を真っ二つに裁断することを提案したのです。そうすれば横幅が狭まって草庵茶室にも飾れます。こうして織部はこの茶掛を前半十九行のところで裁断してしまいました。この出来事はかなりの一大事件でもあったようで、茶道歴史漫画『へうげもの』で「古田織部、世の宝を損なう者なり」と言った大河内久綱をはじめ、織部の気狂い沙汰ともいうべき奇行を非難する者が少なからずいました。

真っ二つにされた流れ圜悟、その後半部分は所在不明となりましたが、墨跡にするため裁断した前半部分は江戸時代後期に茶人・松平不昧が入手し、その後雲州松平家が所蔵しましたが、そこから東京国立博物館へと寄贈され現在に至ります。さて、ここで一つ考えたいのが、なぜ織部は流れ圜悟を裁断したのでしょう、ということです。圜悟克勤という、茶と禅の系譜にとって始祖ともいうべき存在の書いた墨跡を真っ二つにする、こんなことはとても恐れ多くてできないでしょう。一方では師である千利休には対照的な逸話が伝わっています。それは、やはり織部と同じように茶掛として用いるには大きすぎる墨跡をどうしたらよいかと利休は持ちかけられました。その時利休はそのままがよろしいと言ってその墨跡は手を加えられなかったということです。師の利休がその墨跡のありのままを良しとしたのに比すると、弟子・織部の裁断という決断には大きな志向の違いが見られるでしょう。無作為を愛でるか、作為を良しとするか、両者の行動の陰にはそういった判断基準があったのでは、と思います。前回紹介した井戸茶碗「十文字」もその基準に従って十字に割られたのでしょう。

しかし一方では、この流れ圜悟は裁断されたことによってさらに有名になったとも言えます。それまで大きすぎて草庵に掛けることのできなかったこの墨跡が今茶室に飾ることができるのは、一重にこの織部の判断のおかげなのです。茶道具というのは面白いことに、こうしてなんらかの損失を経ることで有名になったものがいくつもあります。流れ圜悟と現在双璧を成す国宝墨跡の「破れ虚堂」という墨跡は所持している商家の騒動の最中に破られたことによってさらに有名になりました。また、最上の美しさを持つ唐物青磁茶碗「馬蝗絆」もまたひび割れにかすがいという損失があることによって特に愛でられています。織部は確かに取り返しのつかないことをしましたが、一方ではそれのおかげでこの墨跡はこれほどまでに有名であるのです。


ここまで古田織部による流れ圜悟「裁断」の一件を取り上げてきました。しかし正直に申すと、もうしかしたら裁断したのは織部ではないかもしれません。織部だと言われてはいますが、確証はありません。ただ私は織部ならいかにもやりそうだと思います。やはり井戸茶碗「十文字」の逸話と非常に似たところがありますのでそう信じてしまいます。

次回は「7、持ち上げられた失敗作~古伊賀の破れ袋」をお送りします。