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『へうげもの』 第16巻 講談社 ©山田芳裕


約9か月に渡って更新の途絶えていたマボタン二周年企画「古田織部の茶」、ようやく第八回を執り行いたいと思います(こうしているうちに3月12日は三周年)。今回は「茶室の完成形」と銘打って京都・藪の内流の家元に伝わる古田織部の茶室・燕庵について語りたいとおもます。



私が今回敢えて燕庵のことを「茶室の完成形」と呼んでいるのは、ひとつ気にかけてもらいたいことがあるからなのです。それは千利休という人は確かに茶道を大成した人ではありますが、彼によって茶道が「完成」され、彼の死によって茶道は下り坂に向かったという風にはとらえては欲しくないのです。利休の死後も茶道は発展し続けていますし、今もなお新しい形でもって茶の心を表そうと模索が続けられているのです。

現在茶道界において支配的なのは千利休の子孫の家たる三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)が中心故、利休中心の歴史観が形成されてしまうことは致し方ないです。しかし一方ではそうした歴史観から一歩出てみると利休を超えようとした様々な茶の挑戦者たちがいるのが見えてきます。その点古田織部という人は千利休に対し最も挑戦的だったとさえ言えるでしょうし、彼の挑戦は利休の道統に属する我々には知っておくべきものだと思います。



それでは今回お話しする「茶室」の分野において織部はどのような挑戦を行ったのか、それを見ていきましょう。

まずは茶室の歴史についてから。茶室というのは最古と言われるものが銀閣寺の東求堂(国宝、特別拝観で見られます)に残っており、これは「古典的」と称される四畳半の小間でした。囲炉裏のある半畳をぐるりと囲むようにして四つの畳が敷かれたこの四畳半こそが利休の時代までは正統な茶室でした。しかし利休は茶室の矮小化を進めることで「主客一体」、亭主と客が極限に近づくことで心を通わせられるということを目指そうとしました。彼が作り、表千家に残る三畳台目の茶室「不審庵」や大山崎の国宝二畳「待庵」は同時代、そしてのちの時代の主流となるような見事なものでありました。

これに対し古田織部はどう切り込んだかというと、「武家」という自身の立場からこれを崩していったのです。千利休は自治都市・堺の出身の商人であり、商人らしい自由な発想の下で茶道を発展させました。これに対し古田織部は美濃出身で上洛を目指す織田信長の家臣となって仕えてきた武人でありました。豪商茶人が姿を消していき、茶道の趨勢は武家に移行しつつある、こんな世の中で織部は利休のやり方を時流に合わせて変えていくことを選びました。

そこで時流に合った小間茶室を作り出そうとしたとき、織部が目を付けたのは不審庵の三畳台目だっただろうと思います。待庵のような究極的に狭い小間では織部もいじりようがなかったでしょうが、不審庵三畳台目には改変の余地があり、これを自分流に変えてみせることで脱利休化を図ったのでしょう。ちなみに不審庵三畳台目は畳を三畳横並びにして、一番奥に亭主畳である台目をくっつけたものです。


織部はまず何をしたのかというと、「相伴席」というまったく新しいものを設けました。従来の茶室だと大名が客になる際に、どうしても同席する家臣と身分差をはっきりさせられないのが武家側にとっての不満でした。武家は面子を重視したがるものなのです。こうした声を織部は拾い上げ、一番奥の畳の左側にもう一畳追加して、そこを家臣の席としました。このことは千利休的な「茶道に身分差は関係無し」という発想に反するものであり、利休を慕う茶人のなかには少なからず眉をひそめた者もいたでしょう。

さらに上の漫画の一コマに見られるように、床の間の位置を一番奥に持って来、亭主の台目席を一番奥右に置くことで、上から見たら「長十字」(日本風に言えば「入り蜻蛉」)形という非常に均整のとれた茶室が完成したのです。こうして出来た燕庵は武家からすれば従来の草庵よりも開放的で、しかも面子を保つことができますし、一方の商家にとっても非常に斬新で新時代の幕開けを告げるようなものでした。この燕庵という小間は誰にとっても(上の漫画の織田有楽にとっても)あまりに魅力的でした。

この燕庵はやがて古田織部の娘婿の藪内家初代・剣仲に譲られ、藪内家は江戸時代を通して浄土真宗本願寺派の総本山・西本願寺の茶頭(貴人に茶を点てる役目)でありました。藪内家はこの燕庵のすばらしさについてよく知っていたのでしょうか、門下生に燕庵の写しを作るのを寛大に認め、それによって燕庵の写しは江戸時代に全国に普及しました。中でも広島・尾道にある浄土寺の茶室は豊臣秀吉が元々燕庵の写しを欲しがって建てられたという伝承がありますし、今の藪内家にある二代目燕庵の建物も安芸の商家の写しを移築したものです。金沢の兼六園の茶室・夕顔亭も意匠は変わりますが燕庵の形式であり、いかに人気があったかがうかがえます。


織部の茶室における挑戦はこうしてより需要ある小間の創生を生み出し、その後弟子の小堀遠州は小間と広間を使った武家流の饗応へと茶の湯の空間を発展させていきます。千利休、古田織部、小堀遠州、彼らの茶室はどれも茶道における一つの達成、頂点であり、完成形だと言えます。どうしても茶道史を見る時、千利休が中心的になりがちですが、ぜひとも織部の目線、遠州の目線でも茶道の歴史を見てみてください。新たな発見があること間違いなしです。

次回は「9、かくなる上は一言の申し開きもなし ~織部切腹の因」をおおくりします。