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今日の稽古には椿餅を用いた。

裏葉のほうにひっくり返されて抹茶の泡のような色具合に照葉の肌艶の良さがよく似合っている。上の葉も下の葉も裏葉が外を向いている。これは少々風変わり 作ったとらやの趣向によるものである。どの葉も随分と綺麗にできているものだと思う。最近は虫害が多くて粘菌のような白い輩が外の椿の木にも飛び火してしまった。それだけにこういう健康的な照葉が羨ましい。

椿餅というのは野趣と愉しむ和菓子である。素人手みたいな感じですりつぶした餡のつぶし方が十分でないのがあって口内でまた歯臼にかけねばならぬ具合が面白かったりする。椿の葉も尺取の二三匹這った跡のあるくらいが生き生きとしている気がする。しかし私の買ったのはとらや製だから野趣とは真逆の所で出来ているのだろう。之も道成寺粉を使っているから椿餅を食べているというよりは桜でなく椿の葉を包んだだけの桜餅を食べているような感覚であった。だが無論美味しくはあった。



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久々に萩焼の本物の茶碗を出してみる。春の風も来るらしいので飛騨春慶の緋の塗りが合うと思い大海の茶器を用いる。

良い萩焼は本当に良いと思う。萩焼の土や釉は朝鮮の諸窯のものに近いし如何に高麗物に似せようか努力した先人の苦労もまた偲ばれる。萩焼は黄土色や乳白色 琵琶色に浅紫色などその色の多様性も面白い。

うちにあるのは浅紫色の 夜明け前の朝霧みたいな風情を湛えたものである。薄い乳白色の釉薬がその上からかけられて二つの線が出来ているのが良い景色。少し井戸形の曲線や口縁に遊びが足りていないのは難点だと思う。ただ萩焼の良さは十全に味わえる茶碗だ。

この茶碗も前見たときとはだいぶ印象が変わった。萩の七化けである。何度か使えば景色が変わる。生きている茶碗なのである。私は之を今回見て昔より良い茶碗になったと思った。白の釉薬がどんどん浮き出てきて格好良くなった。また碗内に出来る雨漏りや斑点が明らかになって面白い景色を作っている。使うほどに見栄えがする ならば稽古のし甲斐もある。沢山使って格好良くしてやらねばならない。実に茶人が持つにふさわしい焼き物だという気がした。




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次客の茶碗は鼠志野だ。萩焼の細身に比すると寸胴太身で野暮な感じがする。だが出来が悪いのではなく志野とは分厚い焼き物である。その分厚い肌だからこそ穴ぼこだらけで良いのである。萩のような繊細な茶碗というのは損なわれやすいが 志野ともなると実に頑丈に出来ている。優品も萩焼に勝るほどに多い。

志野というとやはり北國の女子のような色白の肌が魅力である。之は炉の季節 冬に特に重宝される。ただ志野は器の性質上少々うるさく感じられるところがある。そういうときは鼠志野か紅志野を用いたい。鼠志野は普通の志野よりは暗さを帯びているから大人しく感じられる。

茶室というのは電光なし。暗さとともにある。卑屈なまでに太陽を嫌い北向にして窓を排する。そうなると志野のような色白はたぶん暗さに対してよく映える。今電光の下で見るほど志野は野暮ったくはないはずである。まるで蛍雪のごとき趣があるだろう。それに比すると鼠志野は闇と融合する。より侘びた茶碗というわけだ。出来れば私も電気を消して鼠志野の真の姿と向き合ってみたい。



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最後に最近気になって仕方ない裏道具がある。茶巾である。最近茶巾が不潔に感じられるようになった。

茶道の点前において茶巾は欠かせない。何度も濡らした茶碗を拭く必要があるからだ。之をしないと濡れたままの汚い茶碗を用いることになる。茶巾が無かったらたぶん布巾を何枚も自分の手元に持っておく必要がある。綺麗好きなら一回使うごとに新しい布巾を使うだろう。だが布巾を何枚も持つとなると格好がつかない。持ち運びも面倒だ。運び点前も成立しなくなる。だから茶巾は意外にも点前の大黒柱の一であったりする。

ただやはり茶巾は汚い気がする。最近潔癖症だから特に感じる。自分の手が水屋で汚れていないなどという保証はないし 汚れた手で茶巾を用いたら本末転倒だ。それに釜の蓋の上にも置く。何度も点前の中で使っていれば自然汚れるだろう。続き薄みたいな長い点前は殊に困るだろう。点前というのは実に美しい所作だし合理的だ。だがその裏に隠れて茶巾というのは多用されて汚くなってしまっている。

もし茶巾が無かったらというのはどうだろうか。茶巾はたたみ方が独特である。あれも合理的な点前をするための一つの用意である。また最初に茶巾を茶碗に仕組んで持って来るのもやはり何度も水屋と茶室を行き来しなくてよくするためだ。そう考えると茶巾というのは点前の合理性を最もよく支えている。だがやはり合理性と清潔さは実際正面から対立している。つまり茶巾を用いない清潔な茶道をしたのなら点前の美しさや合理性を捨てなければならないということである。やはり点前のために茶巾は必要となるのだ。汚いとは思っても。

ひとつ 茶巾の問題は私は現代茶道で考えてみないといけない事項だと思う。