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「いいねえ、やっぱり、富士は。」

彼は眼を細めて空を仰ぐとこう言いました。うん、うんとうなずいている彼はようやく富士山にやってきたという気になったのでしょう。太宰はこんな風に御坂峠で言っていたんだがね、と自慢気です。かく言う私も普段は遠目に見るばかりの富士にへばりついている実感がまったくなかったのですが。


そもそも私の国には高い山というものがありません。私の島が国として認知されているかというと甚だ独立を害されているところでありますが、その島は平地ばかりなのです。もっと山ばかりであったなら、と思うこともしばしばです。そんな私からすると富士なぞは大きすぎてまるで見当というものがつきません。どこまで大きければ気が済むのでしょうか。つい最近まで登るだなんて絶対無理だと彼に笑いながら言っていました。

「我らが富士はおおぞらの上にあるんだ。一度体感してみるといい。」

そういった次の日、彼は無理やり私を起こしては日の出る頃に家を出ました。四時半でした。列車で東海道をなぞって、富士駅で乗り換えを待つ間に立ち食い蕎麦を朝飯にします。富士宮に着くと予報の通り曇り空で建物の間から富士の巨大な山体が我々を見下ろしているはずなのですが、全く雲の中でした。富士宮は懐かしい街です。浅間さんには何度かお詣りしました。祭神コノハナサクヤヒメにあこがれて彼女にあやかりたいとて何度もあの朱の楼門を潜ったものです。その大宮の横を我々を乗せた乗合は走っていきます。

「この分だと山頂も雲の中かな。まあ、下は霧中、上は快晴を期待したいね。」
「あなた随分気楽なものですね。私を引っ張ってきておいて。なあにも見えなかったら腹立たしいですね。」

私が本心交じりにそういうと彼は顔を背け前方のミラに映る自分の顔を確かめていました。彼は都合悪い事を言われると絶対反論せずにうつむいたりする子どもみたいな人です。

「大石、っていうんだね。乗合の運転手。」
「あそこに書いてありますね。ミラの横に。それが何か。」
「大石ってのは静岡に多い苗字なんだ。うちの大学にも一人静岡出身で大石って名前の教授が東大からきていたよ。なかなかの知性派って感じの顔立ちだった。出来る会社員って感じかなむしろ。あとあの最近とみに有名になった高校生の女優。あの女も芸名こそHだが本名は大石って言うんだ。無論静岡出身。」
「あらよく知っていますね。興信所みたい。」

ふん、と言って彼は短く切った髪の毛を掻いていました。

道はぐんぐんと山の中を登っていきます。しばらくすると道路は濡れ霧雨になりました。とにかく濃霧であたりは何も見えません。私はだんだん不安になってきました。このままじゃ登ることさえ出来なかろう。駄目だったら文句も言わずに降りさせられるのだ。私は彼の顔を覗き込みましたが随分平気そうでした。でも彼も内心きっと怖がっていはずです。

何重にも巻いた道を登る間何度か厚雲の合間から太陽が見えました。私たちはすでに雲の中に居てときどき隙間から青空を見ることが出来るのです。晴れ間が見えるたびに私たちは大丈夫そうだとか、上は期待できる、とか言って慰め合ってました。

五合目に到着したのは10時過ぎでした。霧の中から大勢の登山者たちが下山してきます。彼らの顔を覗き込むと皆むっつり顔で疲れているようでした。その表情を見るに上の景色は期待外れだったのだろうと思いました。これから上を目指す人もたくさんいます。仲間連れで登るアジア系の若者たちや大学生の男女混合に小学生や赤ん坊を連れた家族。実にさまざまです。

「随分初心者が多いみたいだなあ。富士を舐めてかかっちゃいかんぜ。」
「私たちも初心者じゃないですか。去年から上り始めたばかりの。」
「何。経験値が違う。山の数を指折って数えてみい。」

言葉ばかりは威勢の良い彼はあまり元気が無さそうでした。きっとこの霧中からの登山にやる気をそがれたのでしょう。気分が萎えた時の彼のいでたちは投げやりな幼児そのものです。此方までも気分を害してしまいます。またいつもの物が始まってしまったので私はしばらく彼をそっとしておかねばなりません。

五合目から上り始めるとぱさぱさした柔らかい砂の道に足を難渋ませます。彼は結び損ねた靴ひもを何度も結びなおすために留まっていました。早くも子どもが一人、帰りたいと父親に泣いてせがんでいます。その様を彼は眉をひそめてにらみつけました。




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「暑いなぁ。歩くと案外。この分だと半袖で構わなかったね。」

彼はそう言いながらリュックを持ったまま器用に上着を脱いで仕舞いました。休む時間も惜しい我々は小刻みに砂を足で蹴りながら一歩一歩上へ上がります。私のことをほとんど見向きもせず彼は独りで登るので二人の間に流れる雰囲気はあまり良いものではありません。

「紅いオンタデがあるよ。あそこにはヤナギランも。」

見るも鮮やかな花々が火山灰の脆い土壌の上で咲き誇っています。富士で花を期待していなかったので殊の外嬉しそうです。そういえば乗合の道路脇からもヨツバヒヨドリやらヒメシャジンやらが咲いていて奇麗でした。



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新七合目を目指して上っていると雲が抜けて美しい青空が広がりました。登山客らも我々同様見えては隠れる空模様に一喜一憂しています。彼は急に元気が出たみたいで再び饒舌が戻ってきました。

「あの杖を持っている連中は間違いなく初心者だね。」
「どうして。上で焼印を入れてもらうのでしょう。」
「だからなのさ。あんな棒っきれが山登りの実用になると思っていやがる。小さい奴でも千円以上するじゃないか。俺は絶対買わないよ。今日は山登り用の杖を忘れてきてしまった。それでもあの杖に頼るくらいなら俺の脚を信じた方が増しだ。」

彼は初めて笑みを此方に向けました。主張しようとしていることはよく分りませんが、その固かった表情が崩れたことが私を安堵させます。



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彼が笑ったことで私の想念にも少し余裕が出来ました。その頃私は初めて富士山を見た時の事を考えていました。

あれは私が19の時。母が死んで島を出ようと決めました。年歯の近い伯母が高円寺に住んでいましたのでそれを頼って上京しました。日本は何もかもが巨大で、早いです。島育ちの私は随分愚図のように見られました。私にとっての規範は島なのです。其処に愚図は一人もいませんでした。私は馬鹿にされて早く帰りたくなりました。極め付けは伯母の家です。ちょっとした高台のところにあって夕景が綺麗なのですが、其処に一つの美しい山影を認めました。三角形の均整の取れた、東京からでも存在感のある山。それが富士山でした。何と巨大なのだろう。私はこの国に飽きれてしまいました。

私は此方で男を作ろうと思いました。伯母は、一回りも年歯の違わない彼女はよく彼と称する男を連れ込んできました。居候の身で言うのもなんですがこれが大変に不快でした。出ていきたくなったのですが他にツテはありません。私は彼女を見返そうと思って大和民族の男たちを物色しようとしました。しかしながら私を途端に襲ったのは激しい「嘔吐」でした。男たちは皆蝦蟇のように開いているのかわからぬ目をし、婆娑羅のように派手ないでたちで闊歩し、能の猩々みたいな髪の毛をしています。これが私の夫たりうるでしょうか。彼らは皆それぞれ虚飾の王です。東京の底辺を這いずり回って蛭のように何か得体のしれぬものを吸っているのです。私は彼らを嫌悪しました。一生独り身の純潔であったほうが増しでした。

此処に私の居場所はありませんでした。職場から帰って愛の巣を横切りベランダで温めた珈琲を飲みます。湯気と白い溜息が景色を濁らせました。その向こうには富士山の影がありました。富士は良いって言うけど何処が良いのだろうか。私はこの国の何もかもが憎い気分です。私はいつの間にか目に涙をためていました。お母さん、とつぶやきます。貴方の妹は随分薄情者なのですね。こんな寒いベランダにいたら肺病にでもなりかねないのに何も声をかけてくれない。窓の外の椋木でヒヨドリが鳴くたびに私は祖国を想ってしまいます。あちらでも鳴いてましたね。穏やかな温かい冬の昼間に。

半年もしたころ、私はある催しに行きました。祖国の舞踊団が中野で踊るというので郷愁に駆られて見に行ってみました。音楽堂の踊場のような場所に椅子が並んでいて催しはその前で行われています。龍や獅子が出てきて踊り手は前を見ることが出来ないのに巧みに転がったり跳ねたりして見事でした。私は周りの人に流されて手拍子を送ったり一緒に踊ったりしていました。先刻から隣で鼻をすする音がして、少し不快になったので見遣ると男の人がじいっと前の方を見ていました。年歯は私よりも上のようです。泣いていました。涙が非道く多くて彼のジャケットを濡らすものですからいたたまれなくなって、手拭いを貸してあげました。何度も固辞されましたが最後には手拭いを押し付けて渡しました。その手拭いは島で染めたもので極彩色がとりわけ目を引くものです。彼はじっとその手拭いを見たまま終いまで固まっていました。

催しが9時に終わって帰ろうとしたところ、先の男性からお誘いを受けました。目が赤くなっていました。見たところ彼は婆娑羅でも猩々でも無いようですし素朴な姿に悪い印象はしません。私は彼が何故泣いていたのか、理由が知りたかったので着いて行くことにしました。悪い虫でも出そうな暗がりの喫茶店でした。もう店じまいをしようとしていたのに私たちは這入っていって珈琲一杯づつ頼みました。彼は催し物の感想を話し、泣いた理由を単純に感動したからだと言いました。まず嘘だと分かりました。彼はその時生えてきたばかりの顎髭を触っていたからです。本心でないことをいう時のこの癖は今に至るまで治っていません。私は不満を残しながら、彼が島のことを聞きたがったので体験を話し、別れました。

彼の熱烈な恋はすさまじいものでした。私は毎日のように追い掛け回され、終いには彼との交際に首肯せざるを得なくなりました。同棲に至って彼の温度は平熱を取り戻したようですが、しばらくは彼に振り回されることになりました。…私は今に至るまで分らないことがあります。それは私が本当に彼を愛しているかなのです。私は受動的に彼の愛を拒まないことにしました。それからより二人の愛は健全に発達をしたはずなのに、どこか偏りのあるいびつな全体像が私には浮かんできます。私はとても彼を頼りにしています。伯母の家から出ると私は彼だけを信じられるものとして寄り添い続けてきました。一方の彼はどうでしょう。実は自分の事だけで精いっぱいなのです。彼のお母さんと仲良くなったあとで聞かされました。私と出会ったころの彼は鬱病の癲癇持ちだったのです。あの子がなぜ島の舞踊を見に行ったのか動機は分りかねるが、何か熱い気持ちがあって行ったのではないかとお母さんは語っていました。彼は情緒がその時不安定ですぐに感動しやすかったのかもしれません。彼は自傷と失意のどん底にいたのですから。私は未だ彼との愛に対して実感を持てずにいます。それは彼の性向が災いしているのかもしれませんが、今でも特に気にせず付き合っています。

同棲した初日、彼の家からはやはり夕焼けに富士山が見えました。東京というと今じゃそう簡単に富士は見られないと言いますが、私は富士山にも付きまとわれているのかもしれません。彼は自慢げに窓の外の電線の合間に見える富士を指さして言いました。

「俺の家の誇りなんだ。富士山。いいでしょ。」
「ええ。いいものですね。」

言わされた訳ではありません。本心でした。じわじわと湧き上がってくる幸せをかみしめていると最初富士を見た時のささくれた気分は彼方に行ってしまって、私は愛おしげに暗闇になっていく富士山を名残惜しみました。そして窓を閉め煎茶を淹れてやったときに湯呑み越しに手と手が初めてふれあって私が頬を赤らめたときの感触は今でも覚えています。彼は時折乱暴な亭主として立ち現われます。仕事もせず物書きをして親に養ってもらっている人です。それでも二人して富士山を見てふざけ合っていると何もかも忘れてしまいます。



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「おい、あれ見ろ。」

彼が鬱陶そうに指さした方には男女がいました。日本人の女と西洋人の男のつがいです。二人は手を繋いで登っていました。蝶が二人の合間を抜けていくと女が「ちょうちょ、ちょうちょ、」と歌い出しました。二人で仲良く歌っています。

「殺したくなるね。どっちも。西洋人だから付き合っているんだろう、あの女は。」
「あら非道い。邪推でしょう。」
「売国だ。」

彼は自分でそう言っておきながらすぐ自分で恥じ入っていました。とにかくその男女が目障りなようで大股で上って行ってしまったので着いていくのが大変でした。彼は何を考えているのでしょうか、全く分りません。




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七合目に達するころには私たちはだいぶ息が上がっていました。ちょっと頭が痛くて気分が悪いのです。彼はまだ先刻のことを引きづっているみたいで表情は暗いままでした。私たちは皆が休んでいて窮屈な地べたに足を下ろします。

「高山病は大丈夫。頭とか痛くはないかしら。」
「うん。俺は構わないよ。」
「人が沢山いますね。」
「それはそうだ。俺たちだけじゃない。日本中からお客が山ほど上ってくるんだ。富士宮、吉田、御殿場、須走。ここからだけ「じゃないんだぜ。それに皆が一番上まで行くとも限らない。うちのばあちゃんは八合目でご来光を見て、それでお鉢まで行かずに下山してしまった。あと高山病で死に掛ける奴輩も多いしな。見ろよ、そこの女の子。そうじゃないのかい。」

いまどきの山の格好をした女の子が小屋の壁ぎわに一人体育座りをしてうずくまっています。顔は足にうずめてしまってどうなっているか分りません。彼女の周りにもそういう人が何人もいました。

「貴方もならないように気を付けないといけませんね。」
「あーあ、頭が痛いっ。」

彼は人に聞こえるような大声で言うとあくびを二回続けてしました。私にも一度伝染りました。

登山を再開すると彼はだんだん明るくなってきました。ただそれが少々他人に迷惑をかけかねない明るさなので困ります。見ず知らずの子どもに頑張れ、頑張れ、とはやしたてたり、周りの人に聞こえるような声で、どっこいしょ、だなんて言ったり。私はそういう彼の性質があまり好きではありません。私と言う人間がいながらほとんど傍若無人に振る舞える無神経さを彼は持っているのです。

…そもそも彼の優しさって何でしょうか。私は彼に配慮というものをあまりもらった試しがありません。彼はたまに野の花を生けて居間に飾ってくれることがあるのですが、それくらいです。この前は何処で採ってきたのか、芙蓉を見せてくれましたが一日花なのですぐ萎みました。彼は大変悲しそうでした。私も彼の事を可哀想に思いました。なけなしの優しさです。滅多に見せることのない。それも失敗に終わってしまいました。

きっと彼は心の中ではとっても温かい人なはずなんです。でも口に出る言葉は先刻から分る通り子供じみて辛辣です。おまけに自分で言っておいて後で後悔しています。たぶん彼は自分の中で何かと戦っています。何かが彼の人間的な温かみを阻害して表に出ないようにして居るのです。きっとものすごい苦しいはずです。自分の想っていることの半分も相手に伝えられず、むしろ誤解を恐れて喧嘩をして友達を失ってきたのでしょう。彼はよく私の外に知り合いや友達は誰もいない、と自慢のように言っています。傍から見てそれは全く好ましくないはずなのに彼は満面の笑みを浮かべています。私は途端に彼の悲劇的な生き方を思い浮かべて目に涙を浮かべそうになりました。彼はそういう人です。私がいてやらねばならないのです。



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我々はいつの間にか八合目まで来ていました。延々と続く単調な上りにさすがの彼も辟易として口数をあきらかに減らしていました。高山病も心配です。

雲海は我々の真下にありました。下方では雨が降っているというのに此方は雲一つ無い快晴なのです。それがとっても不思議でした。このような世界は富士山の他を置いてありません。非日常。非現実。私は未だに富士山の上にいる実感がつかめていないのです。

私は肌にじりじりという感触を覚えたのでクリイムを塗りました。彼にも分け与えてやりました。迷惑そうな顔をっして砂利の混じった手で塗りだくっています。





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「もうちょっとだよ。もうちょっとなんだがね。」

彼は上方を指さしてひとりごつようにして言っています。確かに見遣れば鳥居のようなものが見え、その辺で坂が終わっているのでお鉢はその向こうのようです。彼は道脇のロオプをつかみながら上っていて明らかに苦しそうであります。私は思い切って後ろから彼のリュックを押してやりました。

「うわっ、止めろ馬鹿。」

彼はロオプを離して駆け抜けるように登って行きました。そして此方を向くとぜいぜい肩を揺らしながら子どもの様に笑っていました。私もつられて笑いました。








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「ほら、皆くたばっているよ。」

九合目を過ぎると道端で倒れたりうずくまっている姿が多く目につくようになりました。此処が登山でなかったらすぐ助けてあげたいのですが、彼の方はと言うと自分が未だ高山病にかかっていないのを誇らしげに思っているようでした。でもさすがに私も彼も辛いようで、あと山頂まで10分程度のところで休みを取ってしまいました。山荘以外の場所で休憩をとったのはこれが最初で最後でした。私は軽く吐き気とめまいがしたので多く休憩を所望しました。彼は私の顔見るために面を上げるのも億劫なようで、私と状態は変わりないみたいです。



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私たちは遂に山頂部に出ました。強い風が吹き付けています。富士山はもはや何処にもありません。此処にあるからです。奇妙な感覚でした。私は初めて富士山頂に立ったのです。

「ほら、奥宮だよ。君の大好きなコノハナサクヤヒメがいらっしゃる。」

彼は私の肩を抱いて奥宮の拝殿へと連れていきました。荘厳な素木ばかりの内部で私たちは静かに参拝をしました。願いですか。そのようなものは神社に詣でて考えたこともありません。ただ無事に此所に来られた嬉しさを、胸躍る気分を曝け出すだけなのです。

私がコノハナサクヤヒメに執着する理由があります。彼女の夢を何度か見たことがあるからです。

彼女は何時でも美しい方であります。私と顔立ちはあまり似ていません。切れ長の深く刻まれた潤んだ目をしています。眉は細く緩やかに吊り上がっています。輝ける黒髪は結いもせず風の流れるままにしていました。彼女は富士山を背景に天女のような巫女のような格好をし、桜の枝を両手に持って踊ります。私はどういう観察者として彼女を見ているのでしょうか。視座は何処なのか、全く分りません。夢故の奔放さです。いつの間にかコノハナサクヤヒメは私になっていました。唇から桜の花弁が落ちてきます。桜は今や私の指先からも咲いてくるのです。私は狂って踊りました。狂気は我が神のためであります。踊っているというよりも、飛んで、跳ねていました。

私は幸せ者です。こんな夢を三度も見させていただきました。夢から覚めて美しいものを見た感動がこみ上げてきます。私は強い縁を感じました。他人よりもこの方のことをよく知っていると思っています。

ですから、というのでしょうか。私はコノハナサクヤヒメに関するすべてこのことを信じています。彼女の座所はきっと、伝承の通りこの富士山頂なのです。幻覚かもしれませんが、富士の山の端から半身を出して桜の花吹雪を舞わせる彼女を見たこともあります。私は異国人ですが、心の底から彼女を愛しているのだと思います。



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やはり、それでも富士山頂というのは別にあるのであって、お鉢を見渡すとひときわ高い剣のような丘があるのです。それが日本最高所の剣ヶ峰であります。

一層重たくなった足を持ち上げながらざらざらした斜面を上ります。彼は何度もこけそうになりながら鉄の柵を掴みながら歩いています。此所を上がったらあとはただ下るだけ。そう考えると少し楽になります。横風にあおられながらの一歩一歩は今回では一番辛いものでした。





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「着いたよ、山頂だっ。」

清々しい顔をして先に着いた彼が待っていました。彼の足もとまで来ると彼は急に私を抱き寄せてくれました。彼の病苦で痩せこけた体に私の乳房が当たってとても恥ずかしいです。周りで見ている人がいるというのに。ちょっと汗臭いです。どれだけこの人は嬉しいんでしょうか。そのあと二人で手を繋いでお鉢のほうに向かって万歳をしました。なんだか涙が出てきました。嬉しいというか、なんか喜劇的なものですから思わずの笑い涙だったんでしょうね。





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「すみません。シャッタアを切ってくれませんか。」

若い女性の二人でした。山頂を示す碑の前では大勢の人が並んで写真を撮っていました。二人とも可愛い顔をして、化粧もせずに何か満足げな雰囲気を纏っています。彼は他人に頼まれごとをされるのが大嫌いなので私が撮ってあげました。カメラは十万円くらいしそうな、とてもしっかりした一眼レフです。私はしかし、彼女らのために写真を撮るというのに意識は向こうの富士山のほうに行っていました。あまりに荒々しいお鉢の景色があります。コノハナサクヤヒメの臥所は此所だと言うのでしょうか。私はなんだか感動して、それで手が震えてなかなかシャッタアが切れずにいました。そして、パシャ。

「あの、申し訳ないですケドもう一回撮ってくれませんか。私たちが写っていなかったもので。」

見てみれば私は驚きました。二人の姿は何処にも写っていません。富士山のお鉢だけが画面にありました。私は途端に顔を赤らめました。







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30分くらいいたでしょうか。時計は14時半を指していました。名残惜しくも山頂を後にします。さあ、走るぞ、と彼は意気込んでいます。

彼はものすごい砂埃を巻き上げながら邪魔だ、とばかりに登ってくる人たちを立ち退かせます。正直後で髪の毛や目に後塵を被る私はとっても迷惑です。一度ばかり彼は誰かに舌打ちされていました。彼もにらんで舌打ちで返しました。馬鹿な男たちのつばぜり合いです。彼に後れを取らぬよう、私も走らないといけません。休もうなどと口にしたら彼は一歩も引かずまた喧嘩になるだけですから。



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「すごいよ、俺たちどんどん雲に近づいていってる。」

子供じみた言い方で彼は興奮を私に伝えようとします。確かに真下にあった雲がいつの間にか私たちの目の前までやってきて、これからその中に入っていこうとしているのです。あまりに巨大で、あまりに不思議な景色であります。私たちは天候すら超越した場所からようやく平地へと帰って行こうとしているのですから。

いつの間にか私たちは富士の火山灰で煤だらけになっていました。靴は灰色一色だし、髪の毛にも大分ついてしまいました。彼は眼鏡が灰で見えなくなるので盛んに上着で眼鏡を拭いています。日差しが強くて汗もかいてしまったので早くお風呂に入りたいです。…山というのは下りが本当に億劫ですね。目的は達成してしまって、あとは帰るだけだ、と思っていると余計に疲れがたまる気がします。温泉とか、入れたら良いのですが。

ひとり、不思議な子どもがいました。小学生らしいのですが同伴者は誰もいなくて単独行のようです。私たちは走るが如くに下っていたのですが、少年も相当に速くて抜かすことが出来ません。この子は一体一人で来たのでしょうか。本当に子どもなのでしょうか。下り方があまりに熟達したいたので、この世の人のようには思えませんでした。彼も不思議がって、あの子供は何者だ、と腹立たしそうに聞いてきました。私にも皆目見当がつきません。





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七合目を過ぎたあたりから彼は時計を気にし始めていました。乗合の時間が16時半で、それを逃すと一時間半待たないといけないのでどうしても乗らないといけないのです。七合目での休憩も飛ばしました。今は16時ちょうどです。間に合うでしょうか。

もうすでに雲の中に入ってきました。小雨も降っています。温まりすぎた体温を覚ましてくれるような、優しいものです。私たちの前からもたくさん上ってくる人がいます。もう振り返る余裕もありません。彼に着いて行くだけで精いっぱいです。もうちょっと楽しい下山だったらよかったのですが、彼と言う人は本当にせっかちなので私がたとえ疲れていようと、彼も疲れていない限り休憩しません。もっと後ろの私の子とも気遣ってほしいものです。…もっと優しい人と付き合えばよかったですか。いいえ。誰しも夫というものに取り換えがきくのだったら私は男の人とは絶対付き合いはしなかったでしょう。匿名とか、没個性とか、恋愛がそういう類に属しているものだとは信じていないのです。一個の具体的な人間と泥臭いまでに付き合うことが妙味なのでしょう。悪口くらい言ったっていいじゃありませんか。彼を見捨てるには遅すぎるほどに私は彼と言う人を受肉していまいましたので。




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最後は六合目から走らされてなんとか時間内に登山口へと戻ってこられました。充実感というものを感じるよりもただありがたい気分でした。乗合に乗り込むと私は窓に頭をつけて、すぐにでも眠りに至ってしまいそうです。彼も少し興奮した面持ちで前の方を見ています。運転手は行きと同じ人、大石さんでした。乗合はぐんぐんと富士の裾野を駆け下りていきます。彼は景色を見ているようですが私は疲れ果てて眠っていました。彼は何か話したかったようです。

富士宮市街で夕方の渋滞があってだいぶ遅れて駅に着きました。眠気の充満していた私はあまりよく覚えていません。彼が起こしてくれたり、手を繋いで乗り換えの案内をしてくれました。気づいたときには列車は小田原付近です。眼をこすって彼の横顔を見たらちっとも疲れていなさそうで、いつもの不眠症の所為でまったく眠気を感じていないようでした。

「夕飯はどうしますか。帰ったら21時近くになりますよ。」
「いや、別にいらないよ。適当にすればいいんだし。」
「適当って何ですか。実は作ってほしいんでしょう。大丈夫ですよ。ご飯炊きますから。」
「ああ。ばれていたんだね。」
「当たり前でしょう。貴方なんて口で言わずとも顔に書いてありますから。」
「それ、うちの母さんにもよく言われたよ。」

彼は苦笑しました。私もつられて笑います。仕様がない人です、本当に。富士山に行くなんて、正直楽しくないし、疲れるだけなのに、それでも行くのです。私たちが何かを得てきたとすれば、それは何でしょうか。私は目に青々とした富士の空が今も残っています。彼の所為であまり楽しいとは言えませんでしたが、それでも彼がいなければ富士には一生登らなかったでしょう。まだ疲れていますがようやく充実感が湧いてきました。再びまどろんできて、少し恥ずかしいけれど彼の肩に頭を預けて、上目遣いで甘えてみせました。