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「良い蓋物だね。」

知里恵美里は目の前に置かれた菓子器の蓋を手に取りひっくり返す。銹絵の薄。枯れた風情。ずっしりとした質感。乾山はこうでなくてはならない、と思う。裏を見やれば南蛮じみた菱の入った文様が目に入る。菓子は未だに葛饅頭だ。

恵美里の一畳と、板敷、そしてもう一畳の向こう、台目の点前座で彼女の父親、と言っても60歳も年の離れた「おじじ」が群青色の単衣でどっしりとしている。おじじは丁度高台寺蒔絵の棗を大儀そうに拭いた。彼の点前は空気のようだ。何が起こっているのか、全く分かった気がしない。恵美里はそんなおじじの点前を見るでもなく、外の松虫の声に耳を傾けているらしい。

「いい加減、この草庵に名前を付けようと思う。無名庵でどうかな。どうせ名無しよりは増しだろうね。」
「喝っ。名が付いた瞬間に駄目になる。少し黙っておれ。」

恵美里は風変わりな女だ。アットゥシ風に仕立てた着物を纏い、長い黒髪は結いもしない。何時でもそう。まるで女っ気が無い。しかし男たちは言い寄ってくる。その連中を恵美里は散々にこき下ろした。結果として26になった今でも独り身だ。おじじは一人娘の婚儀を心待ちにしているというのに。

彼女はじっと点前座を見ている。おじじは道具組みが好きだからしょっちゅう茶話に駆り出される。彼は隠棲した前の市議だから付き合いは広いが、恵美里は特別ならしい。毎夜のようにこうやって彼女を和館から突き出た小間に案内する。一応彼女には道具を評する義務がある。薄闇の中立ち上がる色の妙を見ていた。

やがて主茶碗が出る。黄伊羅保である。喉が渇いていたので一気に飲んでしまう。茶が旨いかはどうでも良い。道具が茶を旨くし、茶室が茶を旨くするのだ。

「どうだ。」
「この黄伊羅保は本物、それとも紛い物かな。」
「自分で確かめろ。」

茶碗を見る。落款は無い。『魔の山』のペーペルコルンの唇みたいに口縁がギザギザしている。年季が外面を随分黒々とさせていた。高台に釉薬はかけられていない。嫌な作為というものは殆ど感じられなかった。

「旨かったよ。でも火襷の水指はいただけないね。あと蓋置は総織部の夜学かな。おじじにしては工夫が無いね。定石外し、って知ってる。何処かであっと驚かせるようなことしてみせないと。ぱっとしない。珍しい交址のがあったでしょう。あれが良かった。」
「そうか。」

おじじは黄伊羅保を手元に寄せると居住まいを正して終いの動作を始めた。面倒なので道具は全部道庫に仕舞って手ぶらで最後の礼をする。おじじの顔は寂しそうだった。


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暗がりの中の湯に肩までうずめてしまう。洋館に付属した広い風呂場はギヤマンがあはめ込まれ天上が高い。恵美里は少し濁った湯に黒髪を浮かべている。そして閑人特有の考え過ぎて疲れた体を癒そうとしていた。

湯に浸かっているとこういう幻想が湧く。自分は世界で一人最上の場にいるのであり、此所には誰一人も入らせたくないという。無論誰も入っては来ない。誰も邪魔をしない。それでも彼女は湯の中の石に背を預けながら、此所は自分だけの物、と強く宣言していた。湯浴みは自分だけの世界。自分だけの至福。それは全裸というものが此の世から隔離されて初めて可能であることと関係していると思う。湯場を覗く観察者などまるで想定してはいけない。自分は神聖な行いをしているのだという気でいるのだ。

彼女は肉感豊かな肌をなでた。それはまるで別の生き物のようである。自分はこの体を遊ばせてやっているのだ。肩まで浸かって3分ほど経つと意識が肌のほうに行ってきて、自分は星のように煌めくギヤマンを見ている。不思議な感覚の到来だ。彼女は毎日自分が湯に酩酊するような気分になるまで湯に浸かるのを好む。至福の時間は沢山あったほうが良い。幸せな時間は人生の勲章である。死しても誰かがその幸福のために悼んでくれるだろう。


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寝間着に着替えて洋間に出るとおじじが松本民芸家具の洋卓に肘を乗せて考え事をしている。レコードはアシュケナージが弾くショパンのノクターンを延々とかけていた。部屋は隅々に暗闇を持っている。おじじの好む木の暗澹たる性質はこういう夜間にこそ発揮される。木は黒い。そして暗闇はさらに黒い。此所は瞑想に最適な場所だ。彼女は敷かれた鍋島緞通を踏んでおじじの領域に入って行く。

「おじじ。私もう寝るよ。」
「待て。まだ11時だ。珈琲でも沸かしてくれ。少し話そう。」

彼女は珈琲を淹れる間にレコードを替えた。アファナシエフのブラームス後期ピアノ作品集に。先刻よりさらに雰囲気が陰を帯びた。彼女はいつでも感傷にひたりたい気分だ。音楽の中に人の心の襞に潜む暗がりが写し取れるものなら聴いて見たかった。

おじじは小説を読んでいた。こっそり題を見たら『暗夜行路』だった。彼女は吹き出しそうになった。86のおじじが読むのか。外を見る。大きく開け放たれた硝子戸の向こうからは冷たい山野の風が降りてきた。薄の穂や萩の咲きはじめの花がゆらめいていた。松虫が大合唱している。おじじが何もしゃべらないのでずっと土の臭いに黄昏ながら珈琲を飲んでいた。

「お前に縁談がある。」

出し抜けにそういわれた。胸が大きな一刻を刻んだ。