私という人間は茶道によって形成されました。私は茶道によって自分というものを知りました。

茶道というのは素晴らしいものです。同時に良くないものでもあります。
茶道は人を育てもするし、破滅させもするからです。

茶道の深淵を本当に知るとき、だれもがその業の深さに慄然とするでしょう。ほとんどの茶道をやっている人は茶道を表層的にしか学んでいません。ですから茶道が恐ろしいものだと言われても彼らは首をひねるでしょう。ですが実際茶道というのは猛毒であります。下手をすれば死に至ります。数寄者のみがそれを好んであおりたがるでしょう。そして私もまた飲んでしまったのであります。自ら、進んで、そのような毒を摂取して、以来私は普通の人間で無くなった気がします。まさに私という者をまったく違った存在にしてしまいました。それが毒の本質というものです。ですから今の自分の運動や生活を変えたくない人は茶道の深淵を覗かぬほうが良いでしょう。

私はこれから自分について語ります。茶道と出会って私が如何にして現在の状態へと変化、発展したのかを明らかにするつもりです。そして茶道の毒というものがどのようなものかを少しでも知っていただきたいと思います。之をもって「茶道表千家 幻の短期講習会-マボタン」は終いとさせていただきます。茶道は人の思っているのとは違って、壮絶なものなのです。





私が茶道と出会ったのは19の時でした。祖母が茶道の先生だったのが大きなきっかけでした。大学の部活を辞め、少し自分というものを見失いかけていた中で、新しい趣味を探していたころです。

私は非常に多感な人間で興味が実に目まぐるしく変化をしていました。大学一年の私はそのとき二年次に進むべき専攻を決めないといけなかったのですが、羽根の休まるところのない鳥のごとく逡巡していました。結局進んだのは日本史学でありまして、そのきっかけとなったのは夏の京都旅行だった気がします。巨大な伽藍、知の地層、磨かれた都の物品、あの時見た広い世界を、まったく新しい文物を私は突き詰めたいと感じたのです。そういう熱意が私の専攻を極めましたし、それは今でもさらに燃え滾っているのでしょう。茶道を習い始めた背景には形作られつつあった興味が支えとなっていたように思われます。



茶道をやる前の私は全くの空疎でした。自分を下支えする精神的支柱が無かったのです。そのような粗野な私には茶道とはとても洗練された文化として立ち現われました。非常に高尚で、次元の高い遊びのように思われました。私は努力のために殆ど行動を起こすことがありませんでしたが熱心に祖母の下に通い詰めました。1年目は当然何もかもが新鮮で、動作や道具の名前を覚えたりだけで精一杯でありました。

私はマボタンを始める前から知識が(記事を書けるほどに)あったわけではありません。実際書きながら勉強してました。ですから、記事を書くこと自体が茶道学習を促進したのです。記事の更新に熱心であるほど、私は知識を欲しました。其処には醜い見栄もありました。しかし私にとって記事を書くことは学びの手段であります。ですからマボタンを始める前の私というのは、意見はあっても、それを一個に仕立てるだけの技量が無かったのです。

短期講習会に行くまでの二年間私は茶道的体験の基礎づくりに徹したのであって、茶道の「毒」はちっとも私に受肉されていなかったのです。表層的な茶道を皆と同じく知ったにすぎません。私の戦いは短期講習会の後から始まったのです。(付録の「私の茶道を中心とした年表」もご参照下さい)



そのころ茶道は私にとって絶対的でした。私を価値づけるものが茶道であり、茶道の教えるものに対して何も疑念はありません。いわゆる紋切り型の大量生産によって流布する千家茶道の正統な文物を受容することがあの時の私にできる精一杯のことでした。

その代わりに私は茶道によって「教育」を受けました。私は粗野から転じて多少なりとも作法に則った生活を行うようになり、またあらゆる有意味の動作に対して敬意を表するようになりました。平たく言えば「礼儀正しくなった」というのでしょうか。茶道が明治以降女子教育に盛んに用いられたのは茶道の持っている教育的要素が所以でした。私もまた知らずのうちに教育されたのです。



私は祖母の教室に行っているだけではと思い、大学の茶道部の門戸を叩きました。其処は流派勝手で今思えば実に面白い寄り合いでした。裏千家、宗和流、江戸千家、上田宗箇流など、私が知りもしない流派の違う点前を会得した人たちが集まっていました。自分で茶杓を作る部長を筆頭に、家元と親類的に顔の利く人や、将来絶対茶道師範になると宣言する人、落語家のように半東をすらすらこなせる人など実に思い出すに面子の豪華なことでした。

私はその中で何を得ようと企図していたのでしょうか。恋人でしょうかね。そうだった気がします。しかし恋愛論においても茶道においても、下手は嫌われます。下手というのは進歩も見込みの無い人間のことです。正直に申しますと、私は下手者です。学ぼうとしようとしない人間でした。それが結果的に茶道部において地位を失い、居づらくなることを招きました。

茶道部は実に閉鎖的体質でした。基本的には卒業生たちの意向で活動は動くし、上級生の専横も甚だしいものがありました。その中で起こった恋愛にまつわる醜事件(上級生が起こした)は私を辟易とさせ、一年もせず私は新部長と衝突して部を出ていきました。この時の私は下手、したたかになれない人間でありました。茶道部は現実的な技術という面において私を大きく成長させましたが、私は自分の判じた悪を許しはしませんでした。

私の下手に対して上手は部に残り続けたでしょう。私の後輩で理沙子という帰国子女の後輩がいました。茶道師範になると言ってきかない活発な子です。彼女は陰惨な茶道部内の事件の中でも保持した輝きを一切失っていないように思われました。彼女には金剛心のように偉大な姿勢が貫いていたのかもしれません。彼女は今バンドの歌姫となり輝き続けているそうです。私は彼女の徹した上手を未だに記憶にとどめています。



茶道部を辞めたころ、私に茶道との付き合いをまったく変えてしまう大きな出会いがありました。たぶんこのご縁が無ければ私は茶道の毒を飲むことなく終わっていたと思います。それは茶道漫画『へうげもの』でした。私がこの漫画を手に取ったとき、『へうげもの』は12巻まで刊行されていて、すでに人気を不動のものにしていました。実は何故この漫画を購入したのか、その明確な動機が今もわかりかねるのですが、ぼかした言い方をするのなら運命が私を引き寄せたのでしょう。

私が衝撃を受けたのは、漫画家山田芳裕のあまりの博識ぶりであり、それ以前に私の全く知らない茶道の顔が存在したことであります。この漫画を象徴する言葉「武か数寄か」にそれを考える手掛かりはあります。「武」 つまり現世的生活を優先するか、「数寄」 好きなことで生きていこうか、その狭間で主人公古田織部は煩悶し続けます。『へうげもの』は一人のしがない下級武士が茶聖に出会い茶道と数寄に目覚め、武功を重ねながら名声を高め、ついには天下一の茶匠へと上り詰めるお話です。ここでは茶道とは一つの生き方であり、俗世と対比される憧れの的であり、そして人間に強かさを教える毒薬でありました。

私はこの漫画によって茶道の裏の、というより真の意味を会得しました。
数寄とは、茶とは命がけでするものなのです。阿呆になっても、どんなに額づいても卑屈になっても欲すべきものとは、権力より名声より数寄でした。何かが好き、そしてそのために死を引き換えにしてでも肉薄してやろうという気概のすばらしさを『へうげもの』は私に教えました。



私が真善美の「美」をあがめるようになった端緒がこの時期にあります。


私が『へうげもの』によって得た「数寄」という観念は私によく適合しました。収集癖があり、一つの事だけ考えるのが得意な私は生まれた時から何かを好きになることにこだわり続けてきた人間でした。さっそく私は美術館に通い詰め、美しいものをたくさん見て自らの数寄心を鍛えだしました。之が私の美の初転法輪であります。毒はこうして初めて生成されたのです。最初こそものの良し悪しがわからなかった自分もだんだん茶道具や日本美術の様式や変遷を理解するようになると審美眼というものが生まれてきました。

審美眼とは褒めることと貶すこと、この二つの器具によって処女地を開墾していく行為によって鍛えられます。美術品に対し何の感想も抱くことのなかった自分が何かを根拠に良いとか悪いとか言える、之はいっぱしの数寄者の誕生でありましたし、そういう感慨の持てるようになった自分が得意げでした。こうして短期講習会に行く前の半年ほどでほんの繕いながら、私は自分の美術的見地を獲得することができました。
このことはのちに私に重大な使命感を付与する布石になるのです。



表千家の短期講習会、それは私のような奇人を養成するために立ち上げられたものなような気がします。この若者向けの講習会は閉鎖的、保守的な表千家にあって実に有意味で未来志向な性質を持っていました。発案者である故山下惠光さんはどういう意図を持っていたのか分かりませんが、其処には茶道の将来に対する憂いがあっただろうと察します(茶道は今それだけ危うい位置にいるのです)。

決して門戸の広くない講習会でありますが、師範である祖母は私のことを見込んでくれて、快く推薦状を添えて送り出してくれました。この怠惰で従順ならない私に何の見込みがあったのかというと、たぶんひたむきだったんだと思います。一度やると言ったら後はもう誰にも聞き耳持たず直進する様子はやっぱり熱意の所在を証明していたのでしょう。私は本当に愚直な人間でした。

ブログの題名「幻の短期講習会」の意について疑問を持たれている方は少なからずいそうなので説明しておきます。私が最初に行った春季短期講習会は食中毒の発生で三日目に中止となりました。その後講習会の面々で連絡を取り合うことになったときにこの集まりの愛称が誰ともなく「幻の短期講習会」、つまり幻に終わってしまった講習会ということですが、それに落ち着きました。マボタンという略称も響きがよいので浸透しました(一番貢献したのは当所ではありますが)。

私は幹事として集まりを度々企画する傍ら、講習会に行った先達を参考に講習会生による共同管理を立ち上げます。2012年3月11日のことでした。「幻の短期講習会―マボタン」と名付け、皆の茶道活動を報告する場にしようと私は考えていました。ただ皆にその考えは理解されなかったようで、当初から殆ど私一人が茶道を語る場となっていました。全くそれでも良かったのです。私は干からびた胎児のようなマボタンの墓守をする役目を自分から買って出たのですから。今もまた最初期の記事を見返していますが、素人らしい初々しさが新鮮ですね。観たもの感じたものに対する感慨がありのままに表現されているような気がして、ちょっと愉快になります。



春季講習会から半年後、私は夏期講習会に再挑戦しました。真夏の京都を舞台にするこの講習会は春季と比べると人が少なく、暑さとの闘いという大変さが付きまといます。今度は七日間の日程を無事に終え変えることができました。この体験は私にとって鮮烈でした。茶道の最奥部であり、正統である不審庵の空気を今も私は忘れてはいません。それだけでなく、私はあの場所の記憶と戦い続けています。自分の見たものは良くも悪くも本物でした。世間とは隔絶されていました。私はこの体験を咀嚼し続け、自分のものとして落とし込まねばなりません。

私の宿題、講習会の問いかけた課題に対する答えはまだ提出されていません。その課題を今此所でお教えしても良いのですが、体験というものを伴わぬ人にとっては奇異に聞こえるかもしれません。すなわち、「自らの確立した茶道を披露せよ」ということです。講習会に行った人間は皆不審庵の内情を目にします。大方は自分の知っている茶道とは違う、との感想を持つでしょう。事実皆現実に突き放されてしまうのです。正統な茶道を知るために内弟子となって修行できる茶人がどれだけいるでしょうか。そうでない人間は俗世で、正統と距離の置いた茶道を学ぶしかありません。しかしそれでよいのです。如何にして自分の茶に自信が持てるか、如何に自分で茶道について考えられるか、それが大事だと思います。「自らの確立した茶道を披露せよ」とは、茶人としての独立が念頭に置かれています。不審庵での衝撃的な体験は私にそういう課題を手渡したのです。私はそれに対する答えを、新ブログの中で提示することができるだろうと考えています。



そのころから私の中では
「茶道原理主義論」というものが沸騰しだしていました。村田珠光や千利休の時代の茶道というものを知りたい、できればそれに近づきたいという態度です。茶道の本質とは何だろうと考えたりして、私の発想は観念的になる一方でした。こういう態度が発生したのは、茶道を根本的に問い直す漫画『へうげもの』に刺激されたこと、講習会で正統とされたものに出会ったこと、そして美術館巡りで古典茶道具に触れたのがきっかけのようであります。マボタンの記事でその端緒となったのは、あまりに観念的過ぎて不評でしたが、「茶道とは何か」という五回にわたって書かれた記事でした。私も改めて読んでわかりにくいと感じたのですが、ただ点前の意味についての考察や数寄について書かれた記事に関してはなるほどそういう考え方ができるかと面白くも感じました。

また茶道具に対しては美術館に何度も行ったことで見方に癖ができるようになりました。なるべく「茶の心」というものをその茶道具から見出そうとするようになったのです。それぞれの道具が作られた、見立てられた背景には必ずその茶人の意図や趣向が働いているから、そういったものを感じ取ろうと思ったのです。

そういえば、この辺から私は常に小難しい考え事をする人間へと変化していったような気がします。数寄心というのは人間の頭までもまるっきり変えてしまうものであります。



之と並行して私の美的世界観は拡大の一途をたどっていました。
茶道にとどまらない、日本文化全体から茶道を論じたいと思ったし、そこに通底する美意識を抽出したいと思っていました。そんな中で企てられたのが観楓期の奈良旅行でした。奈良、それは古典の塊であり、すべての始まりの場所でもありました。京都というのが都という自負を捨てきれない、厚化粧をした年増だとすれば、奈良は都であることを忘れた、自然に年歯を重ねた魅力的な老年であります。奈良とは、私がすべての本質に迫る上で必然的に通らねばならぬ道でした。私はこのとき22歳。まだ幼い感性と不滅の美に出会う情熱の火とが相混じって旅の中で消化されていました。私は拝仏の体験を何かに認めはしませんでしたが、いまでも手に取るようにあの時の煌きを心のうちに取り戻すことができます。私が最も心惹かれたのは女人高野室生寺の諸仏でありました。建築では三月堂に最も不思議と魅力を覚えた気がしています。茶道、仏像、庭園、建築、都市性、王権など、この旅は私に様々な思考の種を提供しました。私は最も良い時期に五感で古典と触れ合うことができたことを僥倖なことだと感じます。



しかし一方で茶道の毒はじわりじわりと私の中に浸透し、次第に大きな悩みと矛盾を私にもたらすようになりました。私は茶道を本質的に知らなければならない、しかし知れば知るほど今の茶道というものは理想状態からかけ離れていると気づく。私はどういう風に茶道と付き合えばよいのか、どう茶道を解釈すればよいのか、暗闘が始まりました。

それだけではなく、実生活においても私は深まりつつある孤立に胸を痛めていました。私は実を取ることができない人間です。不器用なのです。私は自分で社会に出て独り立ちすることに待ったをかけました。私にはどうしても就職活動ができませんでした。他人に偽っておべっかを繕うことは私にとって全くの恥であり、見栄はそれを許さないのです。最低限の偽りで済むようにと選んだ教員の道はまったくもって芳しくない状態でありました。はっきり言って教員など合っていないのに、無理をして天職だと考えつけました。失敗ばかりして、だんだん私は異常を抱えるようになりました。

同時期に私は初めて癲癇発作を起こし病院に搬送されました。この先天的な病気はずっと前から私の脳に霞をかけていたのです。この時期の私という人間は腹もくくれない、中途半端な人間でした。正直何処の世界でも有用じゃなかったでしょう。私の暗闘は今の状態に結実するまで3年ほども時間を要することになりました。

このように私の中で毒が浸透し、歯車が狂い始めていったことで、私は普通の人間からの逸脱が始まりました。このころから常軌を逸した行動が今思い出しても始まったのではと思います。その最たるものが表千家脱退未遂事件でした。

私はそのとき実に中途半端な状態にいたと思います。就職活動など常人ならざる自分にはその戸口を叩く気さえしなかったし、また出稽古をしていたのですが、その先生が脳梗塞で倒れ半身不随になってしまったのでやめていました。とにかく閉塞感に満ちていました。記事(2013年8月ごろ)を見てもやる気のない水増ししただけの記事を毎日投稿していて、あまりあの時期は愉しくありませんでした(投稿頻度が最も高かったのはこの時期でした)。茶道をするのに喜びは感じましたが、ただもう私の好みというのがはっきりしてきていました。侘びた表千家の好みも、どちらかというときらびやかな裏千家の好みも、私には合いません。

私はこのぐらいから小堀遠州という大茶人を崇敬するようになってました。そして彼の好みに関しては嫌いな部分もありましたが、概ねは賛同できました。新たな刺激を求めていた私はこれを機に遠州流で新たな稽古場を見つけよう、できれば家元に近しい場所でそれがしたいと思いました。しかし脱退は失敗に終わりました。正直に言えば、環境をどんなに変えようが、それで自分自身が変わるかは本人が努力しているかどうかなのです。私は新天地発掘が失敗に終わったとき、自分のした間違いに気づきました。結局私は自分が何も創れない、発展させられないことの言い訳をしたかったのです。私は表千家に留まりました。ただそれでも私は表千家に尽くそうという気など無くなって、自分の見出した好みで彼らに逆襲してやろうという気概すら持ちました。祖母は私の決定を歓迎してくれました。私は数か月後、講習生のツテを借りて千葉の表千家のお稽古場に通うことになり、閉塞感は少し後退しました。表千家への反感はそれでも残り続け、これはやがて数年後に再燃することとなります。



私が書く記事に徐々に変化が現れ出したのは、マボタンが二周年(2014年3月)を迎えた後からだろうと思います。二点変化を申し上げますと、写真や画像を多用して楽し気になったのと、考察に多少厚みが増したのかなと思える部分であります。このころは実に散歩散策の趣味が高じていて、行った先で数寄心を駆使するのがとても心地よかったのです。写真を撮ること自体もだいぶ趣味化してましたし。そして今まで薄っぺらかった文章に何か重厚感が加わったのは今見返して確かに感じられます。思考する訓練を積み重ねることによって前よりも多少質の高い記事が書けるようになった気がします。記事は書く量より質が大事、と気づかされたのも二周年がきっかけでした。ただ五月にブログを辞めようかという本心を吐露した記事も書いていて、かなりこのころの悩みは深刻だったんだろうと察しました。7月には再び閉塞感を覚えてブログを刷新しようとしています。ただこれは失敗して9月にはまた元の状態に戻りました。この年から自分はだんだんやっていることと考えていることの乖離が激しくなって、記事も質を心がけるのですがちぐはぐなものが増えていったように見えます。



病は私の心を確実に巣食い、体は徐々に崩壊しかけていました。私は人間関係や教員免許、論文執筆などの度重なる失敗で機能を停止しかけていました。それは鬱という形でやってきて私という人間を殺そうとしていました。もはや茶道など続けている心の余裕など無くなってしまったのが2014年の終わりごろからです。私は逃避と療養を兼ねて各地の温泉場を転々とするようになりました。このころから自分は内側に心を閉ざし、自分だけの世界を構築しようと試みるようになりました。その体験が私を小説執筆の意欲へと駆り立てたのですが、あのころはとにかく逃げるのに必死でした。私は温泉場からたくさんの想像(創造)力と元気をもらいました。私はだんだん俗世のことなどどうでもよくなって『草枕』の世界にでも行って詩情や美意識、感性をそのまま文字に起こしてみたかったのです。私はもはや現世には必要とされない人間だと、心の隅ではわかっていましたが、私の世間体とか見栄とかいうものはまだ私を縛り付けていまして、何とかもがいて職を得ようと金を稼ごうと頑張っていました。



このころ私に湧き上がってきた使命感がありました。私は自分が茶道で培った美の世界観を表現せねばならないというものです。私は茶道によって美的感覚を養いましたが、此所に来てもはや美というのは茶道では狭隘過ぎて私には逆に茶道が魅力的に見えなくなってしまったのです。むしろ自分の紡ぎ出す美の世界のほうが一番美しいという自己陶酔であります。本気で今もそう思っています。私は病的に研ぎ澄まされた感性を磨き上げて、創造を行おうとしていました。そういう状況で生まれたのが新ブログ「恵美里と美衣奈」の構想でした。

愈々人間不信が極まって私が研究室を放逐されたころ、これは去年の9月でしたが、大変日本文化というものを批判的に捉えていました。茶道というものも小汚いままごと遊び以下だと思っていました。そこで外部から日本文化を批判できる目線を私は欲しました。私は海外の事は朝鮮陶器や唐物くらいしか分からないので、日本の周縁に目線を当ててみました。そこで出てくるのがアイヌと琉球です。彼らは日本にあって他者化され、無視された存在であります。もし私が彼らを十全に理解しうるとき、日本文化は真に相対化されるのではないか、そう期待しました。そして誕生したのが架空の人物であるアイヌ人 知里恵美里と琉球人の新垣美衣奈でした。私はこの二人に自分の芸術観を代弁してもらおうと思いました。のみならず彼女たちの民族のおかれた政治的状況は美にとどまらない、国家の理想や相対的なより良い「善」について私に思考させもしました。求められるかは分かりませんが、宗教が提示するような疑似的な真理すらも彼女たちの対話からは漏れだそうとする予兆がありました。私はこの二人に自分のすべてを賭けようと信じたのです。新ブログ「恵美里と美衣奈」はそうした背景のもとで誕生しようとしています。



そんなものですから、私も一旦は自分が茶道を嫌いになったものかと思い込んでいました。ところがよくよく考えるとそうではない節もあって祖母の元で6年間休まず茶道は続けているし、茶道について常に考えてはいるんですね。本当に嫌いだったらとっくに辞めているでしょう。つまり嫌いになったのではなくて、極度に相対化されただけなのだと思います。このブログを始めてから、実に私は様々な文物を見ては自分のものとしてきました。建築、絵画、小説、焼き物、花、温泉、山、食、庭園。これらは全部茶道から始まったものです。私がもっと見たい、もっと知りたいと思うほどに数寄心は毒を撒いて私を蝕みました。結果としてたくさんの物事を知ったから、茶道というものが大したものに見えなくなったのです。



私は茶道の所為でずいぶんと遠回りもしましたし、大病も患いました。ただ六年も向き合った結果ようやく本当に自信を抱いた、たくましい自分を獲得することができました。茶道と、そしてこのブログはその点私が数寄を用いて格闘していく手段であり、場所であったのだと思います。私はやっと何からも縛られなくなり、自分の世界観でもって生きていこうと心に決めることができ、とてもすがすがしい気分であります。そういう心理を抱きながら新しいブログへと移行するというのは定められた運命のようなものだったかもしれません。茶道というものが私にもたらした数奇な人生展開に私は感謝をしています。

正直茶道の凄まじさというものを文字で十全に表現できたかは怪しいのですが、それでも私という人間の精神発達に関しては余さず書いたつもりです。私を形作ったもう一つの要因にジブリ映画というものがありまして、私が国家や民族に「英雄的存在」を希求するのもジブリの哲学が要因なのですが、これは新ブログのほうでたぶん触れられると思います。



本日を持ちまして「茶道表千家 幻の短期講習会―マボタン」は終いとさせていただきます。今までこの拙い記事をご覧になって下さった皆様への感謝の言葉を持ちまして最後の挨拶とさせていただきます。本当に有難うございました。






付録 私の茶道を中心とした年表

2010年1月  祖母より横浜宅にて茶道を習い始める
     4月  大学で日本史学を専攻する
     同   信州お諏訪様に御柱祭りを観る
     5月  大学の茶道倶楽部に入る
     同   飛騨で一宮水無神社の例祭を観る
     7月  九州阿蘇のお田植祭りを観る
     11月 茶道部文化祭の茶席で初めて亭主をする

2011年1月  福岡二日市の親類宅に滞在、筥﨑八幡の玉せせりを観る
     2月  茶道倶楽部で広島上田宗箇流和風堂を訪問する
     3月  このころから5年にわたり毎月の鎌倉散策が始まる
     4月  京都へ観桜
     6月  茶道漫画『へうげもの』に出会い衝撃を受ける、以後全巻購入
     同   茶会の際の不満から茶道倶楽部を退去
     7月  京都で祇園祭を観る
     9月  このころより毎月の美術館巡りが趣味化する、茶道具、美術への興味   
     同   祖母らと京都へ赴き不審庵を見学する
     11月 京都へ観楓
     12月 信州別所温泉を訪れる

2012年3月  春季短期講習会へ行く、三日目にノロウイルス発生により中止となる
     同   「茶道表千家 幻の短期講習会―マボタン」を始める
     
同   春季講習会の仲間たちと初の会合、以降頻繁に集まりを主宰する
     
7月  京都で祇園祭を観る
     8月  イギリスに4週間、語学留学
     9月  夏季短期講習会へ行く、千利休の墓に詣で、七日間を無事修了する
     10月 祖母のツテで、川崎へ出稽古を始める
     同   茶室への関心が高まり、以後多くの茶室を記事で取り上げる
     11月 奈良に観楓、拝仏(東大寺、秋篠寺、西大寺、唐招提寺、当尾浄瑠璃寺、長谷寺、談山神社、春日社、法隆寺、興福寺、室生寺、石州流慈光院など、審美眼大いに向上す)

2013年1月  茶道の本質について考察した「茶道とは何か」を五回まで執筆
     2月  仙台、松島、会津に行く、殊に会津地方の風情を気に入る
     同   春季講習会の仲間たちと五島美術館、静嘉堂文庫を訪れる
     同   マボタンで日本文化を主題にした投稿を始める
     同   春季講習会の仲間たちを祖母宅に呼んで合同稽古をする
     同   自身の茶道具研究の大成「数寄者乃手鑑」の第一回が始まる
     3月  マボタン一周年企画として「利休を知る」を全十回で執筆
     4月  浅間様、三島様に詣でる
     同   教職課程必修である教育実習が見送られ、失望する
     5月  祖母や川崎の稽古場の先生の主宰による追善茶会で亭主をする
     6月  癲癇発作で病院搬送される(下村文月事件)
     7月  川崎の出稽古が先生の脳梗塞による入院によって中止になる
     同   最後の京都行、祇園祭を観る
     同   塾講師就職を企図し塾で教鞭をとり始めるが半月で嫌気が差し辞める
     8月  春期講習会の仲間たちと最後の交流、以後音沙汰無し
     9月  東京各地を散歩し始める
     同   江戸前蕎麦を好んで通い出す
     同   表千家を辞めようと思い遠州流の稽古場を探すが見つけらず
     10月 講習会の仲間のツテで千葉に出稽古を始める
     11月 金沢、高岡へ観楓、金沢の美に衝撃を受ける

2014年3月  マボタン二周年企画として「古田織部の茶」を八回まで書く
     同   記事は量より質が大事、役に立つ情報を提供するべきだと考え出す
     4月  大学で英米文学を専攻する
     同   信州のお諏訪様に参拝
     5月  「不立文字」の茶道精神に反するとして「マボタン」の終了を考える
     同   鶴岡八幡宮の弓道講座に通い始める
     7月  熱意を感じなかったため、弓道講座に行かなくなる(松田桃花事件)
     8月  鳥取境港の親戚宅に滞在、松江、大山などに行く、松平不昧の墓参り
     9月  研究会で同学年と衝突する(「ドヴォルザーク」事件)
     同   体がこわばりを覚えだし、うつの初期症状始まる
     11月 松山、道後温泉、尾道へ行く、温泉趣味の端緒
     同   千葉のお稽古場の茶会で亭主をする

2015年1月  信州松代、湯田中温泉、戸隠、長野、野沢温泉、別所温泉に行く
     3月  病気療養のため上州四万温泉に滞在
     4月  病気療養のため上州法師温泉に滞在  
     同   目指していた教員になる道が閉ざされる
     5月  精神的疲労から、千葉の出稽古に通わなくなる
     同   体が常に怠く、病気がちになり始める
     同   病気療養のため青森酸ヶ湯温泉、津軽嶽温泉に滞在、弘前に行く
     7月  健康のため草津、万座を往復して草津白根山に登る、登山趣味の端緒
     同   谷川岳に西黒尾根から登る、最も深い感慨を得た登山
     8月  農業就職を考え、会津へ4週間の農家体験をする、自分には向かず
     9月  病床の祖父の為槍ヶ岳に登る
     同   研究会で教授に造反する(永嶋フェイスブック事件)
     10月 祖父逝去す、茫然とする
     11月 着物への関心が高まり、江戸時代の古典着物を調べ始める
     12月 病気療養のため上州草津温泉に滞在
     同   新ブログの「恵美里と美衣奈」、このころに構想が始まる

2016年1月  自身の誕生日の席を体調精神優れず途中退室する(26ケーキ事件)
     2月  うつ病患者として認定される
     同   病気療養のため上州四万温泉に滞在
     同   「恵美里と美衣奈」、城崎温泉を舞台に二回のみ執筆される
     3月  大学を退去する
     同   金沢へ移住、執筆家を志す
     5月  金沢の稽古場に通い始める
     7月  独りの生活の中で自分を見失いかけ出す
     8月  築地本願寺でおかみそりを受ける
     同   富士宮口より、富士山へ登る
     同   立山みくりが池温泉に泊まり、剱岳へ登る、九死に一生を得る
     同   自分が茶道を嫌っていることに気付く
     9月  独りでいることに身の危険を覚え帰省する 
     10月 母と『歎異抄』を巡る論戦をする(「無義をもって義とす」事件)
     同   家族での話し合いの結果病気の根本原因が判明
     同   「マボタン」、本来の意義を失っていると判じられて終了する
     
同   真善美を追求する新ブログ「恵美里と美衣奈」を開始する


(追記:コメント欄を開けておくのを忘れていました。どうぞお書き込みください。)