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(無著立像 興福寺)



10月15日 陰鬱な冬晴れの日 日本髪の似合う琉球人、黒島結菜の日 血塗られた壁の日



自分は人間として生きる資格があるのか。時々そう思う。


生きる資格。たぶんそれは考え過ぎた人間が求めるものだろう。楽天家にとって生きることは自明であり、疑念を抱くことは愚物以外の何物ではない。生きることに許しをいただく必要があるとすれば、道徳と言う名の神に対してであろうか。西洋人はそう考えるかもしれない。だが私の育った土壌からはどうもそのようなものが育ちそうな気配がない。其処にあるのは闇への畏敬かもしれない。光への帰依は確かにある。それでも人間がよく事に従うのは罰によってであるから、皆闇を恐れているのだ。だから科学が闇を消したとき、宗教性は一切失われてしまったし、光と言うのも相対的に輝きを失ったろうと思う。したがって無信心である。


では私はどう考えるか。私の原初的体験は近親者の死であった。私の苦悩は生来的性質に依るものであったが、其れを決定的にしたのは断絶という体験なのだ。あまりにも突然の別れであったものだから、人は生の意味を問わざるを得なくなる。もし冷笑的に大事な人の死を無駄死にととらえられるのならば、むしろ達観だ。うらやましい。残念ながら私は優しすぎる。一個の生に重大な意味を付与するには、強力な哲学が必要だ。


私はそういうものを求めて十三年さまよい続けた。科学的知識は冷笑の類に入るから傷を癒すというよりはむしろえぐるだろう。宗教というやつは「真」を提供する。だがそれは「擬似的真」であって、誰も神の存在を証明できぬし、真であるかはわからない。私のような下手に知を積んでしまった人間にとって宗教とは素直に入っていけるものではなく、逆に疑うことから始まる。信心とはまことに純朴な乙女のようであり、しかしあるときは偏屈な婆のようだ。私はこのしょっちゅう顔の変わる『ハウルの動く城』のソフィー的な存在である宗教というものにいまだ根強い不信感を抱いている。


結局まだ私は大事な人の死を意味づけることが出来ていない。全ての生の不安は其処からきている。残念ながら安易に私は宗教に身を委ねられぬから、苦しみ放浪し続けないといけない(自分の宗教観を確立するまで)。私の生はその人のためにある。だからこそ今このような状態で良いのか悩む。苦しい。高いところ、吹き抜けとかに来るとよく飛び降りたいと思う。死ねば楽。死は永久の敗北でなく、苦しみからの解放と約束された浄土行を意味するのだと敬虔な母は言っていた。私はそれを信じない。母はすでに魂の安寧を得ているが、反宗教者の私は生の一瞬の輝きの希望よりも痛ましい死を見てしまう。これは私に下された罰なのだと信じ、しかし私は絶対者を信じず、自分が絶対者になろうとする狂信者でいる。


私と言う人間は生まれた瞬間から苦しむように出来ている。近年私は今までにない苦痛を得た。生きていることが本当に恐ろしい。死にたい。だが死ぬ勇気もない。私には成すべき責務があって、それを遂げぬ限りは死ぬことが出来ない。私には死ぬ権利すらないのだ。このように言うと、まるで運命というものはすでに定まっていて、必然であるように思えてくる。必然だとしたら努力など必要ないだろうか。否、むしろだからこそ自分の力の限りを振り絞ってあがくべきだろう。其処に介在する意志の燃焼量こそ、人間の魂の価値というものではないだろうか。私の魂には大いに値があると張っておきたい。


苦しみはもはや常態化している。それは不安というものだ。何が無くとも恐ろしい不吉の予言者の影に私はおびえている。人間であることの不安なのだ。私と言う人間はもはや寝ていても闘っている。起きた時には大変気分が悪い。今日も見たのは悪夢である。不安を消す術をいまのところ私は知らない。あるとすれば、一刻も早く私の大事な人の生を意味づけ、その死と向き合わねばならない。私には何もかもがまったくわからない。闇を恐れ、光を憎しむ者の宿命だ。いっそのこと白痴になりたい。存在していること。それがまったくわからない。私は早く意味創造をして、不安から抜け出ないといけない。意味だけが私を救うだろう。