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「肘折は良い」

草津からの帰り、乗合で隣に乗り合わせた人と温泉談議に耽った際に、そう言われた。

肘折温泉、といえば山形の山中にある湯治場だ。その時はあまり知らなかったが、効き湯の代表格である。

私はその名を出してもらった代わりに津軽の嶽温泉を勧めた気がする。まあ私もその人も随分温泉に熱を入れていて、結構な有閑人だったのだと思う。温泉こそ贅沢の極みだ。同時に素晴らしい薬でもある。

肘折の名はそれ以来ずっと忘れずにいた。ただ非常に不便だし、印象としては地味だったので他の温泉に先んじて訪れるべき理由も見出しがたかった。

それから一年近く経ち、いよいよ肘折に行くことになった。資金を持ち遠くに行くことを望んだ私は温泉場というよりは何か旅情めいたものを欲して、旅せんが為の旅をやろうと思った。そしてその終着として湯治場があるということである。



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(板谷峠を越え福島から山形に入る。)

山形にははじめて行く。名の通り山が多い。蔵王、大朝日、飯豊、月山、鳥海。そして名も知れぬ山々。盆地の田畑は如何にも豊穣である。土は少しも卑屈や頽廃を知らず、今でも処女の如く瑞々しい。

新幹線からの車窓は私を楽しませる。米沢、赤湯、上山、山形、天童、東根、大石田そして新庄。はじめての土地は私に刺激と霊感を多く与えてくれる。




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(車窓から見える蔵王連山は上部が雲に覆われている。)

列車の旅は長い。祖母とは短歌を十首作る約束をしたので、何か切り取るべき光景や出来事を探している。短歌など作ったことが無くて、斎藤茂吉の短歌入門などという本を祖母から借りた。茂吉は山形の人であって、後ろに載っていた『赤光』の歌はとても参考になった。

茂吉の本とともに漱石の『明暗』を携えた。之を選んだ理由は、最後の方に温泉に行く描写があるからだ。其処は湯河原ならしいが明記されていない。分厚い本で570頁もある。描写も詳細、重厚で実に読むのが楽しい。

後の席の老婆たちが昼間から酒を飲んではしゃいでいる。良い御身分である。私は知らぬ他人に見られる場所であまり酒を飲みたくない。お年寄りたちは大石田で降りて行った。他の人たちは黒服が多かった。




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(乗合は新庄駅から山辺へと分け入っていく。)

終点の新庄駅に降り立って、乗合との接続が上手くいくか、不安だったが杞憂であった。人のまばらな肘折温泉行の乗合は冬季の雪を考慮してなのか、とてつもなく鈍行だ。はじめは市内を回り、それから大蔵村の中心部を通り、山中に入っていく。

まだ雪は無い。ただ空気は湿気を潤沢に含んで今にも降りそうだ。家々では冬支度が済んでいる。庭木は全て雪囲いがなされていて、それは北陸の行き吊りとは異なり全く風雅の無い、実用向きであった。




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(最上川を渡る。)

肘折まで乗る人間は中年風の二三人しかいない。あとは短い間で乗り降りしていく老人ばかりだ。

私は母に勧められた通りに防寒の為、山登りの格好をした。かばんもやはり山のものだ。だが寒さに関しては東京とあまり変わりなかった。乾燥はしていないが。

あの山は月山だろうかと思いながら、一番前の席に陣取って景色を堪能する。はじめての場所はやはり胸が躍る。何時かの温泉街は姿を現すだろう、どんな感慨を抱くだろう、と想像を膨らませる。

山を行くと雪が増えてくる。田畑は雪原である。山も大分白い。ただ期待ほどではない。雪を見たかったのだとしたら随分中途半端な時分に来たものだと気付かされる。



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(橋上から見る肘折の温泉街。)

肘折トンネルなる隧道を往き、下っていく橋の下に遂に温泉街が姿を現した。こじんまりとした、いで湯の里だ。人知れずに、隠れて湯治するには良い場所である。

温泉街の中を乗合が通る。昔の儘の区画になっていて、旅館の建物がいびつな配置でひしめき合っている。停車場で降りてみると、湯の流れる下水の音以外はまったくしんとしている。そして鄙びている。もう14時過ぎだ。蕎麦屋が川向うにあるらしいからまず立ち寄る。此所も客は誰もいない。蕎麦はうどんのような田舎蕎麦である。




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(秘湯を守る会の丸屋旅館。)

宿所に入る。其処の旅館は安めの湯治屋であって、全く私も観光の為に来たのではないから丁度良い。物見人のための部屋はりんどうとかふじとか風雅な名がついている一方、私の部屋は5号室と言う名だった。

侘しい8畳の室内。窓からは温泉街のさびれた路地が見える。することといえば温泉に入るか本を読むくらいしかない。まさに湯治にはうってつけだ。




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(木の浴槽は格別に気分が良い。)





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(銅山川と支流の合流地点から温泉街を見る。)



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(肘折の湯はかなり濁っている。)




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(源泉は飲むと鉄のような味がする。)



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(月山の方の山々は吹雪いていてそうだ。)



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(散歩中に雹に襲われる。)





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(帰る日の肘折は晴れ。)


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(新庄市街で車窓に見事な姿を現した鳥海山。)