五彩龍鳳文面盆






















五彩龍鳳文面盆



志賀直哉の『万暦赤絵』を読んでいる。神保町で買った1987年刷の岩波文庫のものである。

いくらで買ったか、覚えていないが、人文専門の澤口書店という古本屋に岩波の茶色くなってしまった本がたくさんあって、小説の勉強のためにと、好きではない志賀の小説も手に取った。ずっと読むつもりも無く本棚に配列されていたが、つい先日読み終わった『ブッデンブローク家の人々』の後釜として読まれることと成った。

私の様な夏目漱石が好きな人間は志賀直哉のような小説はたぶん好ましい印象を持たないであろうが、反感を持ちつつも、一方では感心しつつ読んでいる。そんなに面白くはないが、文章のうまみ、個性からくる香り高さがある。

なぜ志賀直哉が読みたいと思ったか。短編小説の技法を知りたいと思ったからだ。短編は長編よりも書き易い。書く目的さえ確りしていれば大方完成するだろうから。でも志賀の場合は大分違うみたいである。結構勉強になった。


小説には目的が必要である。少なくとも持論としてはそうだ。しかし短編なぞは目的が無くても筆のゆくままに書いて出来上がってしまう。その場合目的なぞは、つまり何が書きたいか、読者に伝えることは特に意図されない。代わりに要するのが、感慨である。読後感といってもいい。なんかしらの雰囲気というか、印象を与える事。これが短編ならではの良さではないだろうか。前に買った岩波の『小僧の神様』を読んでそう思った。

志賀が短編の名手とされるのには、初期(父親との確執の時期)に顕著だが、読後に感じられる感慨に独特の味わいがあるからである。実際小説内の出来事は大した内容が無い。殆ど惰性で読み飛ばせるし、何の意見も無い。にも関わらず読んだ後には、ああ、とか、なるほど、とか変な溜息が出る。一つの短い映像を見るような感じ。中にはブツ切れのような終わり方をする作品もあるが、切り方としては思い切っていて良いと思う。


では『万暦赤絵』はどうであろうか。こちらは『小僧の神様』のような初期とは様相が異なる。まづ第一に題材が殆ど私小説的である。随筆かどうか微妙な線のものもある。そしてその見せられる映像というのが、過去の一日を切れ切れに引っ張り出してきたような、なんだかぼんやりしたようなものばかりである。もはやこれが志賀のものなのか、視点人物の志賀の仮託した男性なのか、全くの虚構人物なのか、分らなくなってくる。短編集の中に『山科の記憶』から始まる一連の浮気モノの作品群があるが、これが一体志賀の体験のどれぐらいの含有率を占めているのかと邪推してみたくもなった。

この一連の作品群にはあまり、感慨というものさえ想定されていないのでは、という気がする。というよりも、自分で好きなように小説を想起して、設計図は考えていないからあとは読者がどういう感想をもつのかに委ねたい、というような作り方だ。『日曜日』とか『朝昼晩』とか、日常の家族の景色を写し取っただけの、なんだこれはただの私小説にもほどがある、といいたくなるようなものはなおさらだ。そこにはあまり作為というものがない。『城の崎にて』のような、緊張感に満ちた、感慨を導くために練られた厳しい小説構造など全くない。ある種それこそがこの作品群の取り柄なのかもしれない。



表題になっている『万暦赤絵』について。万暦赤絵のことは私も良く知らない。茶道をやっていれば呉須赤絵などなじみ深い茶陶も出てくるが、万暦赤絵は鑑賞と均整が一番なのであまり縁がなかった。上の盆がまさに万暦赤絵の代表作なのであるが、それにしても和様の好みとはまるでかけ離れている。茶陶になっている赤絵や祥瑞なぞはさっぱりしていて、清寧な茶の湯には相性が良いのだが、五彩ともなるとまるで目がくらむ。万暦赤絵は輸出品として日本にも伝来したというが、あまり好みには合わなかったろうということが察せられる。

志賀自身も美術に対してはあまり頓着があるようには書かれていない。柳宗悦や梅原龍三郎擁する白樺派の立場上、美術には近しい立場にあったろうし、随筆にも多く取り上げられている。ただし結構な無知である。彼は芸術的雰囲気こそ好みはしたものの、芸の本質を見通すことに対しては関心が無かったのだろう。その態度はこの小説の及ぼす効果自体に顕れていると言っても良い。

この小説内でのこと。私にとって案外に映ったのは、主人公が売り物の万暦赤絵が当時の八千円だと知ってこれを彼岸の持ち物だと思う描写である。欲はいくらあっても足りないが、縁ないと知れば心につっかえなく鑑賞できるものだと言うような彼の感想が私を冷笑的に面白がらせた(坊ちゃんは意外と庶民的である、欲しい物、良い物はいくらしてでも手に入れようと言う態度は無かったのだ)。彼はその代わりに八十円の犬に手を出して買ってしまう。八千円という額の巨大さの生み出す錯覚が彼に犬を安いと思わしめてしまった。しかもその犬はさっそく飽きられてわざと逃がしてしまう。今度は満州旅行の依頼が来て、その際にまた万暦赤絵に縁付くのだが、結局また満州の犬をもらうという終わり方をする。

作品の全体の風情としては、何か自虐的な、奇なる運命を面白がったような態度だとも言えるし、逆にその横柄で金満な雰囲気に反感を覚えもするだろう。私としては、志賀の芸術に対する曖昧な態度が露見されたような気がして、くすっと笑いを生じてしまう一方で、この人の無頓着さ、己の欲望に対する業の寡なさについて、羨みたいような気分にもなった。そのようなものだから、この表題作はわりかし読後感を意図して作ったのではないかと言える部類だ。万暦赤絵の芸術性そのものにはあまり焦点が当てられず、万暦赤絵と犬の織りなす対照が面白味を付与する。



ここからは蛇足なのであるが、私自身少々興味を持ったので、志賀が観たという万暦赤絵の話をする。万暦赤絵というのは一種の作風であって、白磁に五彩を用いた中でも特に華美で、万暦年間に顕著なものを指すという。一番最初に挙げた盆を見ても分るが、とにかく派手だ。柿右衛門や九谷の上品さとは一線を画している。窯は無論景徳鎮なのであるが、明代、清代通してもこれだけ極彩色のものは見つからない。和様の茶陶とは異なる貫徹された均整美もしかり、色彩に関する相違する美意識もしかり、強烈な印象を残さざるを得ない磁器である。




五彩人物図皿裏




















万暦年間造の万暦赤絵はこのようにして背面に「大明万暦年製」の文字が記されている。景徳鎮という歴史ある窯の矜持、そして中華帝国の権威といういうものがひしひしと伝わってくるようだ。

ここからは「大明万暦年製」が入った東京国立博物館蔵の万暦赤絵を載せておく。実に異国趣味めいた、妙味深い造詣があって目を見張るだろうと思う。




五彩花唐草文香炉


















五彩花唐草文香炉





五彩百蝠文壺























五彩百蝠文壺




五彩百鹿文大壺






















五彩百鹿文大壺




五彩花鳥文方壺






















五彩花鳥文方壺



五彩龍牡丹文瓶

























五彩龍牡丹文瓶





五彩龍文瓶




















五彩龍文瓶




五彩龍文方瓶

























五彩龍文方瓶


五彩龍涛文長方合子















五彩龍涛文長方合子




五彩龍鳳文合子

















五彩龍鳳文合子





五彩雲龍文合子


















五彩雲龍文合子


五彩龍文筆皿














五彩龍文筆皿







五彩人物図皿



















五彩人物図皿




五彩龍船図鉢














五彩龍船図鉢







五彩雲龍文六花形鉢

















五彩雲龍文六花形鉢