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栗毛馬のような男子高生、母親に18きっぷの本を買ってもらう



艶めかしい十歳ごろの女児には小麦の足



喉渇き押そうとした三ツ矢は赤文字



平野水片手にボロ屋に暮れる夕陽見る



扉開けて待ってて呉れる女子高生、貴方は愛おし



××を舌に受ける奴隷美少女の左足、無い



すね毛大根は幾らでも蚊に喰わせてやる



法華寺の観音さまが如く、腕ぶらぶらにして歩く自分



夕方6時、木槿の花の皆お休みよ



蝉の片羽根、風に弄ばれ地に踊る



肉脂の婦人はチヤリのペダルが重くて漕げぬ



ちひろちゃんの点てる茶のより、甘い褐色肌の香



あぢさゐ伐られ、金糸梅のまだちらほら



白妙のあのむくげがたもとに、おさな子の居てほしい事



岡寺の寝釈迦の如き、親父殿は冷房の下



虎狩りの坊やのことを、鬼子母神は見て叩く



太鳳は我が女王なり、毎日太鳳がために勤しむなり



発句集め、とは詩よりは短いくせに、和歌の様に定型でもなく、かといって山頭火や放哉の自由律俳句のような響きもない、私の考え出した一種の短めな文章であります。何か浮かんでは消えていく、自分の感情や観念というものが、そのまま流されていって忘れてしまうのはもったいないことだと思い、最近手帳に毎日書き留めるようになりました。可成り自分の欲情や負の観念をも曝け出しているので詩や和歌と比すると下劣な句ばかりなのです。それでも自分らしさ、自己表現というものをこの形だとしやすいと感じます。なぜかというと、和歌というのは定型であり、音韻に束縛されるがゆえに内容というのが看過されがちだと私は考えるからです。それに西洋詩というものも、結局日本語にしてみると詩情というものだけが規則であり、その行きつく先としていわゆる「ポエム」的なものへと収束してしまうのです。私としてはそのどちらでもない、自分なりの詩、自分なりの句を編み出してみようと思い、この発句集めなる遊びを考えてみました。また興が湧いたら書いてみます。