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今日佛について感じたことなど。



美術館などに行くと硝子ごしに仏を見ることが出来ます。

今日も有楽町の出光美術館まで行って仏教美術展を見てきました。

佛というのは元来礼拝の対象であるため、鑑賞、というのは実に奇異に感じもするのですが。



佛、というのは言うなれば信ずるものが「なるべき」姿であります。

全く人間界とは隔絶された世界に坐ます、絶対者などではなく、人間そのものが佛になるわけです。

よく指摘されているように真宗における阿弥陀如来などは西洋のイエスの様な絶対者としての佛としての側面が強いのではありますが。

而して仏教の教えは何千何億年もの時間をかけてでも人間は佛になることを説いています。

此所においては、時間とか、今とかいう考えは、固執している自分とともに捨て去られるべきでしょう。

現在という見方から脱却する、主観という世界から抜け出す、というのは分っていても、よく勉強しないとまるで合点のいかないことです。

では仏の教えを信じ、仏の道を行くものが必ず仏になれるのかというと、そうでは無いでしょう。

過去、現在、未来は通じ合っているとはいえ、それを一体のものとして捉えることは非常に難しいことです。

其処には全く人間としての私、今此所に生きる私が知覚することのできない、悠久という名の壁が存在します。

悠久、故にまるで何も分らぬ、なれども信ずるがために佛の道を邁進する事に揺るぎがないのです。

ですから信ずること、これは人間にとって、全くもってすべての価値を変容しうる意味、不思議が隠されていると思います。

一方の私は無神仏論者を自称するのですが、人間が一個人として発展するうえでの精神史に、この信ずることが決定的な作用を及ぼすことは認めています。

それどころか宗教なくしては強靭な魂というものは出来上がらぬでしょう、そう信じています。

私も途中までは真宗やら、霊魂やら、神々を信じていました。

それらは曲がりなりにも私という人間の形成に大きな影響力を持っているのです。

佛とはその点では、一つの世界を見る方法なのだと思います。



ところで、不思議である、この世で生きる限り決して明らかにされぬであろう事が、信ずる、ということを通して解消されているということはなかなか目立ちにくいものの、わたしが注目している事項であります。

古今東西の人間の知恵をもってしてでも、分りえない人間にまつわる真実についての謎。

私が考えるのは、生命という装置はどうやって創られたのか、人は身体の停止したあとどのような世界を見るのか、人と人の縁や愛とは有意味なのか、などなど。

これらは人間の人生が表舞台だとすれば、物理的に見ることが不可能な、月面の裏側のような事項です。

誰も不変の解を見出すことが無いのであります。

だとすれば人の感得したもの、すなわち宗教に教えてもらうか、自分で答えを編み出すしかありません。

不思議がある、だとすれば佛自体もまったく不思議だらけです。

不思議であるがゆえに、また佛について考える幅も広がるのでしょう。

仙厓という良く名の通った仏僧はその絵の中で動物にも仏性はあるかという問いかけをなしました。

池脇にたたずむ蛙はまるで座禅をする僧のように静寂を纏っているように見えます。

仙厓はそんな座禅蛙の絵を描いてもいます。

而して仙厓が言うには、蛙の座禅は形だけ、そう見えるだけであって動物に座禅などできるはずもないのだと。

此所で動物における仏性は否定されたことになります。

ですが、私は全く違う風に考えるのです。

実は仏性と呼ばれているものは人間の理性が作った勝手な思い上がりではないかと。

生命というのは畢竟等価であって蟻の死も、人間の死も、結局は同じ意味合いである。

虫を殺すたびに湧き上がる良心の呵責は私にこのような考えを呼び起こしました。

殺生の禁は守られるべきなれど、逆に殺生から生命が問いかける教えもあるのだと思います。

私はそれを聞いたがゆえに仏性についての疑念を抱いたのです。

もし仏性がないとすれば佛になる道はない、すなわち佛は存在しないことになる、これが私の考えなのです。

無論之は一つの仮の見解に過ぎません。

臆病な無神仏論者である私は、自身の安心(あんじん)のために一方で仏教的世界観を肯定することも忘れぬと言う卑劣漢なのですが、私は不思議の解決を自分の知恵でもって行うこともしたがるのです。

自ら考え光明を見出すこと、之は何処かから、誰かから光明を頂くことと同様に重要なことだろうと私は考えています。

そうであるが故に人間の仏性について懐疑を抱くような思考の冒険をしたがるのでしょうが。

まぁ不思議とはこうして尽きることなく湧き上がってくるのでしょう。



教えなるものは、人間の創りしものであるならば有限であり、一つに留まることが無いでしょう。

佛の教えも末法と呼ばれてからさらに千年近くが下りましたが、人間が変わり、時代が変わり、それゆえに教えも変わったのです。

最も変化が生じたのは女性を巡る解釈の変更かもしれません。

かつて女性というものは佛の道の障りとされ、信仰から遠ざけられ続けてきました。

これは無論仏教が男性による男性の為の者であったと言う時代の制約を受け続けてきたからであります。

初期には女人高野の存在があり、明恵、法然、さらには親鸞といった仏僧たちが幅広い救済の方法について向き合いました。そして真宗、法華の熱烈な信仰は老若男女を問わず広まっていき、現在にまで至っているわけであります。

そして今此所に平安の末法時代に貴族女性によって描かれたという普賢菩薩の画像があります(上図)。

阿弥陀の光明があまねく広まる以前にも、一夜にて當麻の曼荼羅を織ったという中将姫や、重病患者を慈悲深く看病した光明皇后の伝説に知られるように女性と佛との関わりというのは古代において見いだせます。

私は今回出光美術館を訪れて初めて存知したのですが、普賢菩薩は女性救済の佛として知られ、貴族女性からの厚い信仰があったそうです。

もはや名の知ることのできない無名の貴族の子女たちが描いたという普賢菩薩の画像には他の仏画には見られない華やかな香りを聴くことが出来るでしょう。

それはまさに女性のための女性による佛の誕生といえるでしょう。

その点においては衆生をあまねく受け入れた阿弥陀よりも私はこの男性ののみしか救済されぬ時代に女性たちに光明を与えた普賢菩薩にこそ親近感が湧く気がします。



その他、地獄について、佛の種類のついて、偶像崇拝としての拝佛など、話題はありますがこの辺で。



追:また少し元気になりました。いつの間にか真夏の合間をぬってそこらへんに秋が来ていますよ。ひよどりが戻ってきて、栗が食べられるようになって、楓が一部だけ紅くなったりして。