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奈良に行くと言うこと、それは一種の私の中の原風景を探索するということでありましょう。

奈良という響き、それは言ってしまえば原初的な風情があります。平安京、京都、京師だとか東京、江戸(穢土)、といった都市の中には無い歴史性がもうその言葉にだけでも内包されている。奈良とは、柳田國男的に言えば「踏みならす」という最も古い日本語動詞のひとつから来ているものであり、平城にしろ奈良にしろそれは当て字であって音のほうがはるかに字よりも希少で本質的なのです。

奈良に行く、それは大概物見か、神仏に会うか、それとも学術的、美術的な目的から、あたりでしょうか。拝仏、仏像を拝むというのは素晴らしいですし、あと先月今月あたりだと正倉院展に行くというのも大事でしょう。私も此度は初めて拝んできました。今回の奈良行きの第一の目当てはそれではなく、ある御方にお逢いする為であったのですが、拝仏、正倉院もまた大変大きな体験でした。自分の中の眠っている美を呼び覚ますという、稀有なる体験とでもいいますか。その点では、今回同じくして行った三輪山登拝もまた、美しい性質であったに違いありません。

奈良の三輪山、それは真の日本的なものの原点であります。京都は日本的なるものの精華、だとすれば三輪山は不変の心が収まっている地であります。日本の心を探しに行こうとする者は皆必ずこの三輪山、大神神社を一度は訪れたことがあることでしょう。

三輪山の神の名、それは誰も知らないのだと思います。一応は日本神話の体系に取り入れられて国津神の大物主の名で呼ばれていますが、おそらくは三輪の地の近所、歴史の出発点たる飛鳥よりも古くから存在してきたこの神の名を表す術など無かったことでしょう。偉大な神の名、それは三輪山を神体とする生命の一つ一つ、まさに自然そのものでした。





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三輪山には昔一度詣でたことがあります。天理教の中心部を突っ切って物部氏の石上神宮から山の辺の道を初めて3時間ほど歩いて三輪山の麓までたどり着きました。その時には美しい神南備の山なりがよく分かったのですが、その稜線の均整のすばらしさというのは神のみ技そのものではないかと感動した覚えがあります。その代り疲れ果てた自分は境内の神秘と太古の力にあふれた空気を十分に味わうことなく帰ってきたわけで。ですから今回こそが本当の大三輪詣でということになったのです。

大神神社の見た目、分らぬ場合には明治神宮の社叢と共通したものを感じるかもしれません。鬱蒼とした感じ、熱烈に信仰される神を持つ社としての誇り、などは、確かに。ですが森の木々はまるで古さが違います。明治神宮の薄暗さは威厳そのものであるのに対し、大神神社の社叢には不思議な明るさ、柔和さがあります。それこそ何も持たぬものへと還っていくような感触さえ持ちます。之はもう神の持つ雰囲気以前の問題なのです。






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神社の拝殿は横に長い檜皮葺の、均整の美しい造りをしています。拝殿自体は背後の本殿に居ます神を拝する施設としてあるのですが、大神神社には特別本殿というものがありません。それは上古には社殿自体が必要だと思われていなかったからであり、仏教建築の影響で伊勢神宮に代表される神社建築が発達したのちも今日に至るまでこのお社に本殿は築かれてきませんでした。

否、そもそもこの美しい自然にあふれた三輪の社叢の中においては、全ての物が神の憑代だと感じることが出来るのであります。お社などは本質的じゃないし、お社で拝むというのは実に仏教的な行為だという感触さえつかむことが出来そうな気がします。それほどに三輪の森は我々に強く自然に還って生き、それを有り難むことを教えてくれるのです。



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境内で見る不思議な光景、それは人々の近寄りがたいほどに熱烈な信心の現れであります。三輪の神の御正体は元来蛇であると言われております。三輪の神が人に変じてふもとの村の娘の下に通うというような伝説も残っており、こうした蛇やミミズが御正体だとする神話の形態は朝鮮でも残っているそうであります。蛇が御正体となると、人々は供え物の内に酒などに混じって蛇の好物とされる卵を持ち込むようになりまして。供物としては取扱いが厄介なのでしょうが、屹度次の日には卵は見事に姿かたちも無くなっていることでしょう。






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いよいよ本題たる三輪山登拝について記したいのですが、お社の方と交わした約束がありまして。というのは御山で体験したことについては口外してはならないということであります。後に登られる方の迷惑になってはならぬので仔細については語りませぬが、実際の所この登拝というのは、一種の抽象的な旅のようでした。いわば、『2001 Space Odyssey』の中の胎内回帰の永劫続くかのような映像、によく似ているのではと思います。ですから完全な登山感覚で上って感性を働かせたことの無い人のする三輪山体験とは全然異なってしまうのです。

一つ具体的な、しかして神秘性に差しさわりない範囲内で言及しますと、磐座(いわくら)が群がっています。神の出現する場所です。その姿は人工で置かれたものとは思えず、かといって自然の手によって造られたにしては出来過ぎています。その磐座との出会い、その群れ群れを見ると、屹度懐かしい畏れが湧いて来るでしょう。自然なる感情の芽生えです。まさに我々はその失われた自己と再会しに、御山へ上ると言っても良いのです。これは全くの登山ではありません。一種の美しい邂逅のための旅なのです。





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私は三輪山を登り終えて、境内を散策する間にも、多くの感情が湧いてくるのを感じました。もはやすべて日本の原風景は失われ、わづかに奈良のまほろばの三輪の地だけが残してきた感動。私はある一つの碑に触れて、その感動に相応するある一つの言葉の答えを得ました。それはこの地を、やはり原初的な出会いのために訪れた平岡公威、すなわち作家三島由紀夫がまとめた「清明」の語です。清明、すべて心は洗われて裸のまま自然と相対することが出来る。屹度三島も私と同じ体験をしたはずです。彼もまた日本の心を求め、そして期待以上の宝を得たのです。その宝はまさしく彼の集大成たる豊穣の海4部作に眠っているはずでしょう。




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帰ってみて、三輪の駅から、三輪山を見ます。美しい稜線。それは神の降り立つ地としての自明さが表れています。美しい純体験。我々に対して三輪山は求めれば、必ずやその答えをその胎内に於いて提示してくれることでしょう。奈良の三輪とはそのような地なのです。

真の心の原風景をお探しの方は、どうぞ三輪さまにお詣でください。